赤信号の考え方
なんでなんでを考え抜くために、試しに赤信号を何故渡ってはいけないかを考えてみよう。
赤信号を渡ってはいけない理由と聞かれて、どんな回答が返ってくるだろうか。
まず最初にパッと思いつくのはこんな感じだろう。
①危ないから
②法律で禁止されているから。ルールだから
③罰金で損をするから
ではこれを深堀りしていこう。
①危ないから
当然、赤信号を無視するのは危ない。
歩行者の場合、自分の命が懸かる。場合によっては自分を避けようとした車が事故って歩道に突っ込むかもしれない。
車の場合人を轢くかもしれない。横から来た車と衝突するかもしれない。
兎に角、事故るとケガをするし、ガードレールが歪むし、骨折、下半身不随で人の一生を台無しにする、誰かが死ぬ、そんな最悪なことが沢山起きるリスクが高まる。
さぁ、まだ踏み込もう。
じゃあ、なんで怪我をしたら、させたらいけないの?
痛いから? 怪我によって人の時間を奪うから?
なんで人を殺しちゃいけないの? 死んじゃいけないの?
人の命は尊いから。それは何故? 今日の晩飯で食べた豚肉の豚とどう違うの?
事故の被害がダメだから赤信号を渡るのがダメなら、被害が起きないのなら赤信号を渡っても良いの?
この問題を深堀していくと、人の尊厳や命の価値といった大きな問いに辿り着いた。
だけどなんとなくだけど、この問題が相当に厄介で、時間のかかる問いだというのは皆感じると思う。
だから今回は一旦保留しよう。後々もっと自問自答力を鍛えてから再挑戦するために、一旦保留だ。
②法律で禁止されているから。ルールだから。
ダメなことだからダメ。
非常にシンプルな理屈ではあるけど、当然その程度で停まれるような僕らじゃない。
何故法律やルールを守らないといけないのか。深掘りしてみよう。
一つは罰金によって損をするから。
分かりやすい論理だけど、だとすると轢き逃げで捕まらなければ問題は無いのだろうか?
ルールを守らない人が増えると社会が成り立たないから。
別に自分一人がこっそり破るくらいじゃ社会は変わらないんじゃないかな?
そもそも社会が成り立たなくても別に関係なくないか?
道徳的、倫理的でないから。
道徳とか倫理って何?
もしもそれが人が生まれ持っている絶対的な正しさだとするなら、信号機が作られる以前から、古代ギリシャの人たちも赤信号は渡っちゃいけないと思っていたのだろうか。
これは論理のすり替えか?
確かに何故ルールは守らなければならないか、主語がルールに変わった上での議論なのだから、赤信号に話を戻すのは卑怯かもしれない。
でもLGBTQだとか人権問題とか騒がれてる、そういう話だって最近になってやっとまともに倫理の話になった。
生まれ持っている絶対的な正しさというには、それがくだらないものだと疑いもしなかった人が過去に多すぎやしないだろうか。
生まれ持った絶対的なものじゃないとするなら、何を根拠に道徳や倫理というのはその権力を揮っているのだろうか。
うん、分かってはいたけど法律やルールを何故守らなければならないのかもやっぱり難問だ。
じゃあ一度視点を変えてみよう。
逆に、「何故救急車は赤信号を無視して良いのか」
「何故救急車は赤信号を無視して良いのか」
この答えは至極シンプルだ。
道路交通法第 41 条により、緊急自動車は道路交通法の特例を受けることができると定められているからだ。
だけどこれは厳密には無視していいと言い切れるものではない。あくまで「安全に気を付けた上で、停止せず徐行しても良い」でしかない。思い出すと例え幹線道路の交差点であっても、赤信号を60kmとかで走り抜ける救急車は見たことが無い。
考えてみよう。
救急車がサイレンを鳴らしながら赤信号を渡ろうとする時、本来緑だった車は道を譲らなければならない。
だがもしその車には大企業の社長が乗っていて、その社長はとても重要な案件のために急いでいるとしたら。それこそ一瞬一秒の遅れで何億もの損失が生まれるとしたら。その何億の損失はその企業の人たちの給料に影響を与えるし、連鎖して日本の経済に打撃を与えるレベルのものだったとしたら。
救急車に乗っている人が酒の飲み過ぎで気を失っただけの、蓋を開けてみれば大して緊急でもない症状であり、譲ったことによる損失で何人もの失業者が出てそれを悲観した自殺者や一家心中が起きる事になるとしたら。
そう、それでも救急車が優先だ。それが法律だ。
この法律をおかしいと思うだろうか。正しいと思うだろうか。
先程の問いはトロッコ問題ですらない。自分の過失でしかも失われることもない命と、何人もの命の天秤だ。どちらが重いかと聞かれれば誰もが後者だと答えるだろう。
だが法律には「損失額が○○千万円を見込まれる場合緊急車両に道を譲らなくても良い」みたいな特例は書かれていない。
当然だ。その交差点で運転している当事者達は、運ばれている病人の症状の重さなんて分からないし、見込まれる損失とそこから連鎖するデメリットなんて分からないからだ。分からないのだから、その軽重を計ることなんて出来ない。その交差点で共通認識として分かっているのは、救急車に乗っているという事は命の危機に繋がる可能性が高いというその一点であり、それ故に救急車は特別扱いされるのだ。
だが実は救急車は全てにおいて優先されているわけではない。
それは先述の通り、あくまで「安全に気を付けた上で、停止せず徐行しても良い」という条件付きであることからも分かるだろう。
これを考えるには「徐行」という言葉の定義が重要になってくる。徐行という言葉は「車両等が直ちに停止することができるような速度で進行することをいう」と道路交通法第2条第20号で定義されている。
救急車の中の病人を優先としつつも、新たな病人けが人を増やさないということは更に優先されている。
大事なのは「○○km以下」という定義ではないという事だ。重視しているのは数字ではなく、何よりも「事故を未然に防げる」ことである。
他の事例もあれこれ見比べてみると、道路交通法というものは何よりも人命を重要視しているということは理解出来るだろう。
事態がひっ迫している時ほど、一つ一つの判断は重くなる。
そんな時に誰かが勝手な判断、選択、行動をして足並みが揃わなかった場合、重大な被害や損失が出ることになるだろう。
赤信号に足を踏み出すのにかかる時間は一瞬なのに、赤信号を渡っていいかについての議論はこれだけ考えても全然決着が見えてこない。
だからこそ事前に議論を重ねて納得のいく答えを出して、それを法律として制定して周知する。イチイチ考え直さなくても過程をすっ飛ばしてでも用意された答えを守らせることで、赤信号に踏み出すその一瞬を思いとどまらせる。
それこそがルールというものだと、僕は考えている。
じゃあなんで、道路交通法は人命を何よりも大事にしているのか。
ここにも踏み込まなければならない。
法律と民主主義
法律を作っているのは誰だろうか?
それは日本でいえば内閣で、内閣が作った法律を国会議員達が議論し、採用するか否かを決定する。
では彼らは何を根拠に法律を作ったり良い悪いを判断するのか。それは選挙によって選ばれたという過去の事実だ。同時に次も議員に選ばれるための努力だ。選挙によって選ばれたというのは、国民によって代表することを許されたということの証拠である。その根拠を拠り所に国民の意思を代弁出来ているという前提の許良い悪いを議論する。因みに彼らは当然ながら、一人ひとりが全国民の代弁者ではない。自分に票を入れてくれた有権者の代弁者である。票を入れてくれなかった人の代弁者である必然性は無い。無論だからと言って好き勝手していいわけではないが、現実的な限界として反映されなくても仕方ないという所も含めて、これが民主主義というものだ。
まぁ、詳しい政治の話は専門家にお願いするとして、言いたかったのは道路交通法を作っているのは、少なくとも建前上は、国民全員だということだ。
国民が詳しく考えていなくてもなんとなく正しいと望んでいると思われることを、正式な手続きを踏めば代わりに優秀な人がトコトン考え抜いて、事前に結論を出して、成果物だけを沢山の人に与えられるはずだ、というのが民主主義の本質だと、僕は捉えている。
たった一つの答え
なんで赤信号を渡ってはいけないのか。
幾つもあるその答えの中から、まずはたった一つだけ、模範的なものを提示しよう。
僕たちは日本国民である。少なくともその法の元で生きる民である。
そこで暮らしている時点で、世の中に溢れる沢山の「なんで」とそれに面した時の選択基準を、民主主義という形で政治家と法律に委ねることに同意している。何故なら沢山の「なんで」を全て考えるというのは途方もなく大変なことだから。
民主主義が機能している限り、僕たち自身はまだ言語化しきれていなくてもなんとなく感じている「命は何よりも大事だ」という感覚が、きっと法律に反映されているはずなのだ。
だからそれを信じて法律を守っていれば、きっと僕たちにとって暮らしやすい社会になっているはずだ。
だから、赤信号は渡ってはいけない。
数多の答え
さて、模範解答を出して義務を果たした上で、もっと捻くれていこうか。
③罰金で損をするから
こんなのもあったよね。
ぶっちゃけ法律とか道徳とかどうでも良いと言う人も普通にいるだろう。
僕だって、そもそも民主主義が機能していると思っていないから法律なんて一概には信じちゃ居ない。
でもそれでも赤信号を渡らない人がいる。それは赤信号を渡った時のメリットと、信号無視で捕まった場合のデメリットが割に合わないからである。
罰金、違反点数、免許剥奪、社会的信用、轢いてしまった相手への補償。
信号待ちで失う時間なんてせいぜい数分だ。例え赤信号を無視して遅刻を免れたところで、「いやー遅刻しそうだったので2,3個赤信号無視して車飛ばしてきました!」とか言うとむしろドン引きされるだろう。
そういう人はもしかすると、見たいアニメの時間に遅れそうだからと言って小っちゃくて人通りの少ない信号くらいなら無視して渡るかもしれない。
これは功利主義的な、損得勘定による渡らない理由だろう。
④白い目で見られたくないから
案外素直な理由としてはこれが一番ストンと来る人も多いのではないだろうか。
赤信号を渡ると周囲から「うわーあの人ルールも守れない奴なんだ」と思われる。
ところでなんでそう思われたらダメなのだろうか?
⑤神がそう仰ったから
場合によってはそういう人も居るかもしれない。
まぁ日本には信心深い人は少ないし、そもそも神様は信号機なんて知らないからそんなこと言うはずない。
だからここは「お母さんがダメって言ったから」と読み替えると分かりやすいだろう。
そういう人にとってはお母さんの言う事が絶対なのだろう。
なんでお母さんの言う事が絶対なのかは、また考える余地があるだろうけどね。
⑥考える必要は無い
赤信号を渡るべきか否かを考えるのは、あなたの中で自分だけ楽をしようとか焦りとか、そういったあなたの感情があるから悩むのです。
色即是空。そのような些事にあなたの心を悩ませる意味がありましょうか?
(曲解した)仏教的な考え方。心の安寧を最優先とする考え方もある。
⑦待つのが嫌いだから渡る
小賢しいルールとか知るか。やりたいようにやる。
これも一つの考え方。
⑧渡ればいい。トラックくらい素手で止められる
行き過ぎた脳筋思考。
轢かれる奴なんて鍛え方が足りないのだ。
⑨赤信号なんてただの電気の光
ただ特定の波長の光を送るように仕組まれた機械でしかない。
それにあれこれ意味をつけているのは人間だけだ。
鹿ならそんなの無視するぞ。
⑩事故に遭った
昔信号無視で大けがをしたことがある。
それ以来信号は守ろうと誓ったんだ。
⑪多分大丈夫
赤信号無視しても別に事故らないしパクられないし、渡っちゃってもええやろ。
正しい答え
ここまで並べただけで11個もあるけど、当然これが全てではない。
だけど取り合えず、これらを見てどれが正しい答えだと思うだろうか?
どの考え方も別に論理として筋が通っていないわけじゃない。
違っているのは何を大事として優先するか、その価値観の相違である。
「轢かれる方が悪い」なんて理論のおかしさは、僕たちの法律が保障してくれるわけだ。
ならば僕は問おう。
法律が国民の総意なんて曖昧なものによって保障されているのなら、国民の総意の正しさはどこの誰が保証してくれるのかね?
と、そんな風にとある名台詞を真似しつつ、やはり疑問に思わないだろうか。
奴隷制が当たり前だった時代があった。同性愛が宗教裁判にかけられる時代があった。誰もが競って石炭を燃やした時代があった。
僕たちは時代の最先端に生きている。
だがその一瞬は次の瞬間には過去になり、100年後には100年前になってしまう人類史の過程でしかない。
競ってAIを活用しようとする時代が目の前に来ているが、AIに人権のようなものを認めようとする時代がいずれ来るかもしれないのだ。えぇ愛護団体、なんて言ってね。
考えることの大切さと途方も無さ
まさに今、僕たちは自分で考える事の大切さに直面していると思わないだろうか。
終身雇用制度を、男社会を、学校教育を、失われた30年を、既得権益を、リモートワークを。
過去の常識の歪みを直視せざるを得なくなり、でも対応がいつまでも後手後手な政府に不信感を抱き、必ずしも考える事を委ねていてはマズいのではないかと不安になってはいないだろうか。
そんな不安との向き合い方を、トコトン考えるというやり方が分からなくて、その途方も無さから逃げるために常に新しい刺激で追い払ってばかりいないだろうか。
実際、赤信号一つ考えるだけでこれだけの時間がかかっていて、それでも全然終わりが見えない。人の尊厳や命の価値なんて重たい課題に手も付けちゃいない。
尤もらしい幾つもの考え方を並べられたら、どれが正しいかなんてわかる気がしない。
僕はその答えを教える事は出来ない。僕の答えは僕のための答えであり、あなたのための答えであるとは思わないからだ。
例えば僕は徒歩なら平気で赤信号を無視して渡ることがある。車が無いなら速度すら緩めず侵入し、そして走ることもなく渡りきる。だが当然、車を運転している時なら停まる。割に合わないからだ。
そう聞いてどれだけの人が「よし、じゃあ俺もそれでいいな」と納得できる? そこまではっきりと割り切るには言葉が足りないし、言葉を尽くしたところで不快に思う人は幾らでもいるだろう。
だから僕は答えられない。
だけど一つの結末を紹介することが出来る。
その思索の洞窟をゴールまで走り切って、再び次のゴールまで走り出した例を提示することが出来る。
その過程で得た、もしかするとあなたの助けになるかもしれない方法論を伝えることが出来る。
いいから方法論を教えろって? そんなせっかちなあなたに要点だけお伝えしよう。
考え方のポイントと、一つのゴール
ここまでの赤信号の話を思い出しながら聞いて欲しい。
根本は有限
まず第一の救いは、なんでなんでは無限にあるけど、案外本当に考えるべき根本は有限だということだ。
例えば赤信号について考えている時に、「命」と「ルール」という大きな課題が出てきた。それを突き詰めてもし「命」と「ルール」について一つの自分なりの回答に至ったとする。
じゃあ次「なんで人を殴ってはいけないのか」について考える時はどうだろうか。再び「命」と「ルール」の問題に直面する。だがこの先については赤信号の時に考えた回答を応用できる。
今度は「なんで蛇口を捻れば水が出るのか」について考えるとする。これもまた「水が命を繋ぐのに必須だから整備された」とか「一定のルールの元で沢山の人が協力してインフラを作り上げた」とか考え始める。また「命」と「ルール」が出てくる。
このように案外、突き詰めていくと毎度ぶつかる大きな課題がある。
そしてそれは実は無限とあるのだが、これまた案外自分にとっては有限なのだ。というのも、考えれば考える程知らないことだらけであることに気付くから、自分が関心があることだけに脳とか時間のリソースを割くようになってくる。
というか、深堀りしていくうちに関心の無い問いは、関心の高い問いに夢中になっているうちに毎回後回しにされた挙句忘れ去られている。
分からなくなった時はズラす
赤信号について考えている時に、急に救急車の話をした。
ただそれにもちゃんと理由があって、「赤信号は渡ってはいけない」に「赤信号でも渡っていい」の特殊な例をぶつけることで物事の本質を見極めようと言う試みである。そして救急車には大企業の社長の車をぶつけた。
そんなある意味「究極の選択」を悩み続ける事で、何が自分にとって重要で、何が重要でないかが見えてくる。
教養を蓄える
これに関してはうまく赤信号の話で絡められなくて申し訳ないのだが、実はと言うか言うまでもなくと言うか、教養は大事だ。
「君たちはどう生きるか」という有名な本でこんな話がある。
主人公であるコペル君は学校であらゆる物質は分子で出来ていると習った。そしてビルの上から人々を見下ろした時分子の話から連想して、人々が繋がり関係しあって社会を作っていると気付き、人間分子の法則と名付けた。
こんな風に物事を深掘りしていると、「あれ、この風景どこかで見たことがある」みたいな感覚に出会うことがある。
当然風景というのは比喩表現だが、そうとしか言えない既視感を覚える事があるのだ。その既視感を探ってみると、社会の問題を考えていたのに理科で得た知識がその理由だったりするのだ。
うーん他の例と言うと……
磁石のN極同士が反発すると言われてもピンと来ないけど、自分が既に持ってるゲームのソフトはゲーム売り場に並んでいても手を伸ばすのに抵抗がある。この感覚に近いのかな、と連想するような。
うん、あんまり上手くない。またいい例を覚えておくことにする。
多分だが、単語にすると感覚的には「天啓」に近い。
因みにこの教養というのは全てを身に着けている必要は無いと僕は思う。
必要なのはその思考を通った経験。そしてそれを必要に応じて調べ直せる感度と技術だ。
少なくとも単なる知識ならネットですぐ検索できる時代である。問題は検索できるように、その検索ワードを掘り出せるかである。
語彙を身に着ける
これもまた非常に重要なことである。
言語と言うのは即ち解析ツールである。
人の思考は言語によって組み立てられるからだ。
勿論、その前段階として「考えるな。感じろ」の段階がある。
曖昧なその感覚を素直に表に反映出来るのならそれで良いのだが、なんでなんで人間の場合そんな曖昧な輪郭だと満足出来ないことが多い。
その時その輪郭を浮き彫りにするには解析ツールの精度が必要だ。解像度を上げて画質を良くしなければならない。
その時語彙が必要になる。
論理を組み立てる時にどの言葉を使うか。
「会う」「逢う」「遭う」「遇う」
どれも「あう」だが微妙にニュアンスが異なっていて、どのパーツがしっくりくるか。その表現の選択肢の幅が語彙というものだと僕は捉えている。
哲学を参考にする
哲学と聞くと「ゲッ」と思う人も多いかもしれないが、なんでなんでを辞められない人にとっては結構面白いものだと思う。
何故なら哲学と言うのは僕が思うに、考え方のパターンだからだ。
何を仮定とおいて、何を確かなものとおいて、どのような思考の積み上げ方をして、何を大事にするか。
思考のパターンは沢山あるが、多分きっとそれは無数ではない。
歴史上の沢山の偉人たちが整備した哲学の中で、殆どの思考パターンは出尽くしているような気がしている。
因みに言うと現代社会で最も一般的な思考パターンは「最大多数の最大幸福」、ベンサム的な功利主義だと僕は把握している。
それに哲学を学ぶに於いて、その手段は別に小難しい哲学書を読み解くに限らないのだ。
別にアニメでも良い。周囲の友人や親などでも良い。
彼らが一生懸命この世界を生き抜いている限り、例え言語化されていなくてもそこには人生哲学が確かにあり、それに触れることはきっとあなたに豊かさをもたらしてくれる。
「ストン」には「なんで」を。「モヤる」こそを大切に
沢山の考え方に触れていると、「自分の心をうまく表現してくれた」と気持ちよくなる時と、逆に「理屈は分かるけどなんかモヤる」と反感を持つ時がある。
例えばひろゆき氏の動画を見て、「よく言ってくれた!」とスッキリすることは無いだろうか。
こういう時はついつい気持ちよくなって立ち去ってしまうが、そういう時はその言葉と自分の心中を見比べて、どの言葉がどの感情と対応しているのか見比べてみて欲しい。そうすると人の言葉で自分の心を分析することが出来る。
例えば僕の話を聞いて「いや、でも……」と思う事が多々あるんじゃないかと思う。
だけどそれで良い。僕の話すことは決して、絶対に正しくない。僕が保障しよう。ほら、既にパラドクスが生まれた。
まだうまく言葉に出来なくとも、モヤるということは君の心が違う形をしているということだ。
自分の心の形を削り出すのはとても難しいことだけど、一番大事なことだ。僕たちの心は3Dプリンターのように最初から輪郭がはっきりしたものではない。木彫りの熊を掘るように、少しずつ少しずつ輪郭を浮き彫りにしていくものだ。
これは違う。これは気持ちいい。
それを繰り返して、自分がどういう人間なのかを知っていって貰えればと思う。
最終的には好みと納得の問題
そうやって考えていく内に、自分にとって何がリソースを割くに値して何が興味ないか、何が重要で何が重要でないかが見えてくる。
そして自分にとって大したことでないことであっても、一生懸命考え続ける人達がいることを知る。
自分が一生懸命考え抜いたことを振り返ると、途中で引き返した思索の道の先にも同じように沢山の得られるものがあることを知る。
だけど自分のリソースはそれに比べて有限であり、だからこそ自分の知り得ないところまで悩み抜いた、行動してきた人に敬意を払えるようになる。
だからこそ、自分にとって大事で重要なことを誰よりも突き抜けることで、人に社会に種に貢献しようと、僕は思った。
根本の手前までの往復
いつもよくぶつかる、有限である根本。
そこに気付くと、逆に言えば無数の「なんで」はその根本に辿り着くまで考えれば良い事にも気付く。
それを繰り返すうちに、根本はいつか浅い階層の合流地点のようなものになり、少し掘ればいつか通った道に辿り着くようになる。
所謂、「定石」のようなものだ。ここまで来たら定石だとこういう結論に辿り着く、というような思考のスキップが出来る。
自分の張り巡らせた思索の地下迷宮は、自分が作ったが故に、なんとなくワープポータルの接続関係も含めてその道順を覚えているものだ。
理(ことわり)
教養の話にもかなり近いのだが、幾つもの思考パターンを体験し繰り返していると、まったくの別分野でもどこかで使った定石と同じ動きをしていると感じる事がある。ミクロとマクロが違っていても、似たようなものを感じる事がある。
そしてその理を応用すると、今まで理解しづらかったこともすんなり整理されることがある。
ここに関しては未だ言語化が足りて無いし、大層なことを言っておいてこの感覚が勘違いだったら赤っ恥だが、取り合えず自分スゲェと思うために、理を掴みかけていると思いたい。
ゴール
いつしか、思索の地下迷宮のうち、よく通る所は探索しきったと一満足するタイミングが来る。僕は来た。
当然至る所に「ここからは興味が無い」「ここからはリソース不足」と探索を諦めた立て札が立っている。
だが少なくとも普段よく使う道くらいにはむしろワープポータルが置かれるようになっている。つまり、思考が短縮できるようになっている。
きっとこれからも僕は新しいことに興味を持ったり、価値観を揺らがされたりする。地下迷宮は完成ではない。でもきっと、今のを元に新しい鉱脈を掘り進んだり、改装することになるのだろう。30年も生きていれば、流石に1からしっちゃかめっちゃかになる事は多分無い。そう信じたい。
ここまでくればようやく、世の中の未踏の「なんで」に気を取られず、世の中の色彩が鮮やかになる。
そして僕は一息を付けた。
以上だ。
まだまだ試行錯誤段階なので足りないところは多いだろうが、今言語化出来ているのはこんな感じの範囲だ。
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