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奢られることは支配されること
お疲れ様です、もんぬです。
2025年の自分に課した『毎日noteチャレンジ』Day19の今日は、奢り奢られ論争を見るたび不思議に思っていた「なぜ私は奢られることに抵抗があるのか」について、気づいたことがあったのでそのあたりを書きます。
もはや見飽きたレベルの「奢り奢られ論争」。
シンプルに奢らないのがかっこ悪いから出す、という男性の意見も。
美容にお金がかかってるんだから出してよ、という女性の意見も。
お互い収入があるのだから割り勘が当然だろうという男性の意見も。
別に奢ってくれなくてもいいけど奢ってくれる男性と奢ってくれない男性がいたら奢ってくれる男性を選ぶよ?という女性の意見も。
その先のあれこれを期待して先行投資として奢る、という男性の意見も。
誘ってきたのに奢らないって意味がわからないという女性の意見も。
ある方が出せばいいじゃんという男性の意見も。
どちらが出したかなど細かいことを覚えている時点で二人とも酒が足りないのだ、という酒カスの意見も。
「恋愛」と「お金」という、全人類にとって身近な話題のMIXなのでこれだけ長らく論争されてきたのだろう。
毎回「また盛り上がってんなぁ〜」と思うと同時に、私は奢られることにかなり抵抗があるので、これはなんでだろうなと不思議に感じていた。
ふと、もしかして親との関係にルーツがあるのかもしれないと気づいた。
親から「あんたのためにこんなに金をかけたのに!」のようなことを言われたことは一度もないが、「自分にお金がかかっている」「そのお金は親が毎日働いてこさえた大事なお金」ということはずっと理解していた。
お金をかけてもらったからには、ちゃんと報いなければと思っていた。
だから親の期待に沿うよう、人生の途中までは真面目に頑張っていたのだと思う。(親の期待は明確で「立派な大学に行き、立派な企業に就職し、立派な男性と結婚し子供を作ること」だった。立派な企業に就職するところまではなんとか期待に沿っていたはず)
大学生の時、親に「大学院の学費は自分で払うのでもう好きにさせてください」と言ったことがある。
やはり、お金を出してもらっているうちは相手の意向に沿うのが当然と思っていたようだ。
お金は支配。
等価交換。
「何にお金を出してもらったのか」を考え、それを満たすように動かなければいけない、という価値観が自分にはあった。
社会人1年目の時も、受注が取れない日が続くと「今日も会社のお荷物だった。他の人が私の給料の分も稼いでくれたんだ」と申し訳なくて泣いた。
実力に見合わぬ高いお給料をもらっていたので、自分の全てを犠牲にしてでも働かなければと、休日も深夜も関係なく時には寝食を後回しにして働いた。誰にも頼まれていないのに、やたらとハードワーカーだった。
お金を払われてしまうことは、ありがたい一方で私にとって苦しいことでもある。何をすればいいんですか、何をしなきゃいけないんですか、と思う。
初対面の人とのデートでもシステムは同じで、奢られてしまうと何かを返さないといけない気になる。
セックスすればいいんですか?と思ってしまう。
無論、したくない人とはできないので、絶対にお金を出す。
余談だが、奢り慣れている男性ほどこちらが「出そうとする」だけでなく「本当に出す」とちょっとびっくりしてそれだけで一目置かれ、アプローチが強くなることが多かった。でも多分、彼らが期待するようなインサイトではないのだろうな、とこのnoteを書きながら改めて思う。
逆に、私が多めに出すことも全て出すことも全然ある。老若男女問わず、私が会いたくて誘った人、私が行きたい店に付き合ってくれた人、いつも多く出してくれる人、お金のことを考えるとその場を楽しみきれないであろう人を強引に誘いたい時、何かお礼がしたいけど形に残らない方がいい場合など。
私が出す場合は必ず先に恩があるので、払った後に何かを期待することはない。
確かみとさんが昔どこかで「女というだけで価値がある」(男は女と食事に行くだけで欲しいものを得ている)のような文章を書かれていて、なるほどそういう考え方もあるのかと思ったが、こと私に関してはどうしてもそう思えないのだ。
というか、そろそろ「女として」ではなく「人として」対峙したいと思っている。
もう散々「男と女」のイチャラブ(恋の上澄み部分というか)は経験したので、少々飽きているところがある。
すごく偉そうなことを言うけれど、あれは結構ワンパターンだと思う。
何かのきっかけで「好きィ!」とスイッチが入る、誘ったり誘われたり、LINEしたり電話したり「この人私のことどう思ってるのかな」とソワソワしたりハラハラしたりドキドキしたりキュンキュンしたり、返信の来る来ないや文面のディテールに一喜一憂したり、ギャップを演出してみたり、駆け引きしたり勇気を出して勝負に出たり、晴れて付き合えていろんなことを二人で楽しんで飽きるほどスキンシップをしたり。
問題はそこから。
恋の上澄みから愛に変わっていく過程で、お互いの人間力が試されると思っている。パートナーという、1:1の特殊で特別なポジションだからこそ見えてくる相手のリアルな人間性と、同じく取り繕えない私の生身との折り合いをつけられるかどうか。
誰かが「人と付き合うことは、人を受け入れる練習だ」と言っていたが、最近になってようやくこの意味がわかるようになってきた。
会社の人も友達も仲間も、そこまで頑張って受け入れる必要があるケースは少ない。大体はそこまで頑張るよりも、波風立てずに「距離を置く」「やり過ごす」が優先される。
友達のことを大切に思っているとしても、友達の人生に介入して良いエリアは決まっている気がするから。介入するならこちらにもそれなりの責任が発生すると思っていて、自分にそれが負えるかわからないし、第一それを相手が望んでいるかもわからない。
でもパートナーとなると、この先の人生を一緒に生きていく可能性がある者同士として、互いの人生に介入し介入される権利があるような気がする。相手に何かあったら自分がいくし、自分に何かあったときに頼っていい相手がいる。そう思える相手がいることが孤独を和らげるんだと思う。それがパートナーシップというものなんだろう。
残念ながら私は、恋のまま終わってしまった人の方が圧倒的に多い。(若い頃は特に)
恋はもう結構楽しんだので、わりとお腹いっぱいだったりする。
恋の楽しさは十分知っているつもり。良い恋をたくさんした。最高〜!なやつもあった。あれを超えられるものはないと思うし、超えてこなくて全然いい。もうそこにニーズはない。
あれだけ恋愛体質だった私が「恋したいな〜」と最後に思ったのがいつだったか、もはや思い出せない。
「女として」以上に「人として」見てほしい。私も相手をもちろん男としても見るけどそれ以上に人として見たい。人としていいなと思う人とパートナーシップを育むやつをやってみたい。
だから奢られない。友達とご飯に行く時と同じように割る。あまり意味のないこだわりかもしれないけど、私の中では重要な意味を持つ。
そうなると「男女の出会い」が前提のマッチングアプリ・合コン・紹介などは結構難しいというか、私との相性が悪い気がしている。
かと言って職場の人やコミュニティの人に手を出すのは私のポリシーに反する。
…もしかしたら既に詰んでるのかもしれない。笑
戻るが、奢り奢られ論争に関しては「どちらが出したかなど細かいことを覚えている時点で二人とも酒が足りないのだ」という酒カスの結論が大好きなので、引き続き私はこちらを支持していこうと思う。(元ネタ見つけた↓)
デートにおける奢り奢られ論争については、うちの妻が言ってた「どっちが払ったか憶えてるような会食をしてるからそんな論争が発生する。全員酒が足りない」というのが結論だと思っています。
— 輝井/terry@空手バカ異世界とかの人 (@terry10x12th) October 29, 2024
奢り奢られの話から私の詰んでる話に流れてしまったな…
今日はここまで!(言い逃げ)
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