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帰る場所という贅沢
アレクサの適当な選曲で、軽快なピアノと散歩にちょうど良い声音の曲が流れてきた。
中村うりさんの『僕じゃない』。
はじめはメロディが好き、というか伴奏が好きだなと思い、リピートすることにしたが、繰り返される歌詞の中で「帰るところなんてどこにもないよ」がやたらと耳についた。
帰るところなんてどこにもないよ
あてもなく歩けば日が暮れるだけ
帰るところなんてどこにもないよ
あてもなく歩けば やけに塩辛い
帰るところなんてどこにもないよ
あてもなく歩けば夜になった
帰るところってそういえばちゃんと考えたことなかったな。
もちろん普通に家はあるし、今まさに家に向かって歩いてるわけなんだけど、「ここが私の帰る場所だ」と思ったことって地味に一度もないな。
生活する場があることと、「帰る場所がある」と思えることは、どうしても別のことのように思える。
ではどんな状態だったら私は「ここが私の帰る場所だ」と思えそうか、想像してみたら案外すぐ答えは見つかった。「気持ちを受け止めてくれる誰かがいる場所」。
今日こんなことがあって、こんなふうに思って、それでね、あっそういえば、とヤマもオチもイミもない話をただただ聞いてくれて、否定してこない誰か。嬉しかった話をしたら「よかったねぇ」、しんどい話をしたら「それはしんどかったねぇ」と呼応してくれる誰か。力んだリアクションなんかいらなくて、ご飯が美味しいとか、このお酒ちょっと濃くない?とかで平気で話が消化不良になって、しばらくして回収したりしなかったり。
ジャッジされない、評価もしない、良い悪い正しい正しくないがどうでもいい空間。何を話したか思い出せない、生産性度外視の、とるに足らないああいうの。
その意味で「帰る場所」と聞いて想起しやすいのは「家族がいるところ」だろうと思う。
私は独身なので、自分の一人暮らしの部屋を「帰る場所」と思えていないのなら、じゃあ両親の暮らす実家が「帰る場所」なのかしらと考えたが、しかしそれも違う気がした。
18年も暮らした実家なのに。
実家にいた学生時代、教育熱心な母と、教育を母に一任した父と、母方の祖父母(これまた教育熱心)と暮らしていたが、気が休まる場所だったかというと怪しい。基本的にちゃんと勉強しているか監視されていた記憶が強いし、残りは親の目を盗んでパソコンをいじったりアニメを見たりしては見つかって叱られた記憶。母親の足音がいつも怖かった。
自分の気持ちを親に話して、親が聞いてくれて、否定されずに受け止めてもらえた記憶はない。(幼少期はあったのかもしれないけど)
代わりに、諸事情あり、親にキモがられたことはある。それは鮮明に覚えている。
(今はもう親と確執があると言うほどでもないが、それでも実家に帰るのは未だに気が重い。猫でもいれば話は変わるのだけど。)
そういえば、少し前にXで「子供の頃、大人に自分の気持ちを受け止めてもらえた経験があるかないかで〜」のようなポストを見て、「大人に自分の気持ちを受け止めてもらえた経験?ないなぁ…記憶の範囲内では」と思ったことがある。
あったのかもしれないけど、思い出せないので、多分ないんだと思う。
大人に気持ちを受け止めてもらえないと思っている子供が大人に気持ちを受け止めてもらえることがあったら、そんなの覚えてるに決まってるでしょう。
強いて言うなら、高3の時に化学の担当だった先生に宛てて書いた手紙のお返事が、それにあたるかもしれない。
その手紙については2年前にVoicyで話しているのでご興味あれば。なんか鼻声だけど(笑)
改めて、すごく素敵な先生だったな。お元気かしら。
そんなわけで、私の中での「帰る場所」の定義は「気持ちを受け止めてくれる誰かがいる場所」である以上、帰る場所はずっとないことになる。
彼氏と同棲していたこともあるが、刺激中毒な私が選ぶパートナーはいつもしっかり刺激的なので、「気持ちを受け止めてくれる誰か」であったことはない。ドラマチックだったりロマンチックだったり、ストーリー性やエンタメ性は申し分ないが、とにかくドーパミン・アドレナリンの支配下で、そもそも素直に思っていることを話せたことが果たして何回あるだろうか…という有様である。
とか言いながら、「帰る場所」の擬似体験はしたことがある。仕事から帰ったら「おかえり」が聞こえる、ご飯を作ってもらう、朝起きたらコーヒーの香りがする、くだらない話の応酬、など。あれはきっと「帰る場所」の構成要素だった。すごくよかったな。大好きで超幸せな瞬間たち。
思えば一人暮らしも14年目?を迎えるが、いつも「最終的な私の安住の地はここではない」と感じながら生活している。何度引越ししてもそう。
いつか「ここが私の居場所」と思えるところに落ち着くはずだという何の根拠もない展望だけがあり、どうせ買い換えるから今は高い家具家電は買わないでおこう、となぜか「大好きなお部屋づくり」は先延ばししている。
このままずっとこんな感じかもしれないのにね。
「帰る場所」なんて幻想で、「おかえり」を言ってくれるのは一生アレクサくらいかも。
心を許せるパートナーがいる人はいいなぁ。好きな人と家族になれた人はいいなぁ。自分にはなかなかできないことだから、もはや嫉妬で悶えるような年齢でもないけど、シンプルに羨ましい気持ちにはなる。せめて来世は、そっちの世界線にいってみたい。
(帰る場所がある人はぜひありがたがってほしいし、その場所を絶えず大事にしてほしいし、もし子供がいるなら家を帰る場所にしてあげてほしい。)
結構悲しいことを言ってるようだけど、不思議とそこまで暗い気持ちでもなく、それは多分ピアノの軽快なメロディのおかげなんじゃないかと思う。私はよく音楽に昇華してもらい、救われている。
たらたら書いてたらもう1時半。寝ないとだ…!
ここまで読んでくださってありがとうございました。また!