![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/169441445/rectangle_large_type_2_b3d31913780a77c63b06c03276415c44.png?width=1200)
自分の加害性
被害者に「なる」人は多い。対して、加害者に「なる」人は少ないように思う。
被害者と加害者は基本的に似たような数いるはずなのに、「誰に何をされた」「被害を受けた」「自分は被害者だ」と認識することは容易く、一方で自分の加害性に無自覚な人があまりにも多いと感じる。
自分が誰かを傷つけている可能性を考えてもいない様子。
まさかそんな。自分は常に正しいことをしている。これで傷つくなんて相手に問題があるだろう、どう考えても、と。
こう書いてしまうと「恐ろしく幼稚な やべー奴」に見えるかもしれないが、私はそうでもないと思っている。
だって「自分は人を傷つけることができるほどの力がない」という自己効力感なるものの枯渇が根底にあったり、譲れない正義が強すぎて盲目的になっていたり、「やべー奴」と切り捨てるにはまだ早い気がするから。
かくいう私も、自分の加害性に自覚的であることを意識し始めたのはつい最近のことだったりする。
私なんかいなくても
上で「自分は人を傷つけることができるほどの力がない」という自己効力感なるものの枯渇と書いたが、それに似た実感を得たことがある。
女子4人で旅行に行くはずだったが、直前で1人行けなくなってしまったことがあった。
行けなくなった1人は、「ごめんね」と言いつつ「でも私なんかいなくても変わらないから」「いない方が楽しいと思うから」とちょっと意味のわからないメッセージを添えていて、あらあらどうしたの〜と残りの3人でやれやれした。
もちろん私たちは4人で行くのを楽しみにしていたし、「傷ついた」とは違うが、彼女が来れないことを全員残念に思った。
でも彼女の脳内は「自分なんかが行けないことを伝えてもがっかりされることはない」「がっかりなんてしてくれない」「がっかりさせることができるほどの自分ではない」という思考だったわけで。
想像はできるし、私も同じ思考回路で人の誘いを断ってしまうことがあるなと思い、こっそり反省したものだった。こんな私でも、人を傷つけたり残念に思わせたりすることはできてしまうんだなと。
これと似た構造の話で、「こんな無力な自分が誰かを傷つけるなんてことできるわけない」という言説をどこかで見たが、関係ないやろ!仮に無力だとしても傷がついちゃうから今すぐその思考はやめな!と焦った記憶がある。なんなんだろうねこれ、何言ってんだって話よね。
とにかく、旅行、ちゃんとしっかり残念だったぞ!また行こうね。
好意の押し付け
だいぶ前に、好きな人がいた。たまたま同じタイミングで、別の人から好かれた。(好きな人をAさん、好かれた人をBさんとする)
Bさんからの好意は非常にわかりやすく、ありがたい気もする反面、かなり気まずかった。私はBさんに気がなかったから。仕事の関係上、無碍にするわけにもいかず、コミュニケーションに悩んだ。
ところでBさんからの好意にすぐ気がつけたのは、他でもなく自分も同じムーブをAさんにしていたからだった。
なぜBさんからの好意に対して「頼むから落ち着いてくれ…君が見てるのは"仕事上の巧妙に作り上げられた私"であって、それを気に入られても困るんだよ…人のこと好きになるの早すぎだろ…そんなインスタントな好意を一方的に押しつけられるこちらの身にもなってくれ…」と思っているのに、自分の好意は別次元だということになっていたのだろう。同じなのに。
私がBさんの好意を「ウッ」と思っているように、私からの好意にAさんは「ウッ」と思っているかもしれない。
そう思ったら、Aさんに対して非常に申し訳ない気持ちになった。相手がどこまでなら快くいてくれるのかを考え、とりあえず好意を伝えるのをやめた。
「好かれる」という一見嬉しいことのように見えるものでも、迷惑になることも不快な気持ちにさせることもある。「勇気を出して告白」とかよく見るけど、果たして「気持ちを伝えることは善」なのだろうか。それが相手にとって「害」になる可能性も考えければいけないなと、私はこの件で深く学習した。
女に好かれて嬉しくない男はいない!も、男に好かれて嬉しくない女はいない!も、好きって言われるのは無条件に嬉しいこと!も、全部「否」!!!
進撃の巨人
「なぜ自分の正義が通らないのだろう」「こんなに伝わらないのだろう」と悩んだことがある人は、進撃の巨人を見た方がいい。あれはなかなか絶望的だが、「正義」「被害と加害」を考える上で教材として非常に優秀だと思っている。
お互いがそれぞれに正義を持っていて、それゆえに殺し合う。殺し合うことなんか誰がどう見ても「悪」であり「加害」なのに、自分たちは被害者なので正義の名のもと相手を殺すのだ!と正当化されており、お互いが同じことを思い同じことをするので結果殺し合いが終わらない。でも、それぞれの正義は特段間違っているように聞こえない。別に間違ってない。寄り添おうと思えば寄り添えてしまう。「そんなことされたら仕方ないよね」という理屈になってしまう。それでも「殺す」は紛れもなく「加害」である。
正義ってそういうものなのね…私の持つ「正義」も知らぬうちに誰を傷つけている可能性があるのね…「なんでこんなことするの?」と思っていたあの人もあの人も、もしかしたら何かしらの正義のもと、あくまで「正しいこと」として行っていたのかもしれないのか…
と、絶望しながらも「そういうものなのか」と腑に落ちる感覚はあった。ちょっと大人になれた心地さえした。
カープマンのドラマ三角形
コーチングを学ぶ過程でお気に入り理論トップ3に入ったのがカープマンの「人間ドラマの三角形」ってやつだった。
何かというと、人は「迫害者」「犠牲者」「救済者」のどれかになってしまうと登場人物はそのままに「迫害者」「犠牲者」「救済者」のポジションをグルグル入れ替わりながらずっとその三角形をやっている、という話。
詳しく知りたい人はこのへん読んでみてください↓
自分は被害者だと思っていたのに気づけば人を傷つけていた、自分は人助けをしたつもりなのに気づいたら「加害者」呼ばわりされていた、なんで?ということが起こる理由が書いてあるが、要は「依存関係にある」というところがミソだと思っている。
私は昔、まさにこれに当てはまりすぎることがあった。はじめは救済者のつもりだったのに、うちに被害者になり、気づけば加害者になっていた。実体験があった分、理解のスピードは鬼速く、授業中に「わわ…あれはこういうことだったのか…」と固まってたな…
兎にも角にもこの三角形に入らないことがめっちゃ重要。入ってるかも?と思ったら距離をとるべし。
このnoteでこの理論の話を出したのは、「自分は被害者だ」「自分は救済者だ」と思ってる人に、実は自分が加害してる可能性を考えてみて?と言いたかったからである。
一番気づきにくいから。自分の加害性って。気づきたくもないし。
とりあえずまとめ
バラバラと羅列してしまったが、私は近年自分の加害性に恐ろしくなるシーンがいくつかあり、今後も自分の加害性にはぜひ自覚的でありたいと思っているし、自分の加害性について考えたことがない人には一回省みてみない?と提案したくてなんとなくnoteを書いた。
でもこれ読んで「あ、私も自分の加害性に自覚的になろう…」って思うの、もう自覚してる人がほとんどだと思うんだよな。
逆に「私は大丈夫!」と思った人ほど、思いがけず加害してんのよ…
だからこれ系の内容を書くときはいつも悩む。意味あんのかな、って思う。結局書くんだけど。
ぼやきで締める感じになっちゃいましたが、ここまで読んでくださりありがとうございました!
ではまた。