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福山の名言:聴いた人が「これは自分の歌だ」と思ったら"届いた"ということ
お疲れ様です、もんぬです。
2025年の自分に課した『毎日noteチャレンジ』、Day5の今日は2024年末の紅白歌合戦で白組のトリを務めた福山雅治の名言がすごく良いなと思ったので、それについて書きつつ、執筆に対して思うことを書いていきます。
もったいぶってもアレなので、タイトルに名言を書いてしまっていますが笑
今年の紅白は個人的になんだかすごく楽しかった。
言わずもがなB'zのスペシャルサプライズには鳥肌が立ったし、Vaundyは今年も余裕でかっこいいし、椎名林檎様は今年も愉しそうで何よりだったし、tuki.の晩餐歌がテレビで見れて嬉しかったし、滅多にアイドルに興味を持たない私だがTWICEのモモ様には目が釘付けだったし、MISIAの歌唱力には「すっご」と声が出たものだった。ALFEEやGLAYのウン十年ぶりの紅白出場もエモかったし、けん玉も成功して良かったね。
あと、南こうせつとイルカね。良すぎやろ。
南こうせつの神田川では「この人はなんちゅう優しい声を出すんだ」と泣きそうになり、イルカのなごり雪では「何度聴いても良いッッ!!!」とまた泣きそうになっていた。
世代じゃないのにね。親がずっと聴いてたんだろうな。
そんな中、歌やパフォーマンス以外で心が動いたのが福山雅治のMCだった。(前後の文脈は忘れてしまったすみません)
「聴いた人が『これは自分の歌だ』と思ってくれたら、その歌は『届いた』ということになると思ってます」
的なことを仰っていて、これはミュージシャンに限った話ではない、私も文章を書く者として、読んだ人に『これは自分の文章だ』と思われるようなものを書きたい。と即座に思った。
当然、私は私でしかなく、私の人生しか知らないので、書ける文章は私の範囲を出ない。
それでもたまに私の文章を読んで、激しく共感したとか、全く同じことを考えていたとか、初めて人にわかってもらえた気がしたとか、救われたとか、そういったアツい感想を送ってくださる人たちがいる。
数々いただくDMの中で、そういう内容のものが私は一番嬉しい。
「文章うまい」も嬉しい。「おもしろい」もすごく嬉しい。
でも「届いた」時のDMたちは感動で震える。嬉しいを超えた感動がある。
人って基本的に孤独なものだと思うけど、「届いた」とわかった瞬間は一瞬孤独じゃなくなる感じがする。
私が感じたことや考えたことは、私にすら正確に把握できていないだろうけど、なんとかなんとか知っている言葉に当てはめて世に放つ。それを受け取った人から「ちゃんと受け取った」と呼応してもらえるとき、他には代え難い幸せが得られる。
あぁ私たちって一緒の時代を生きてるんだよねぇ、と、"時代の同級生" の存在を感じる。
とか偉そうに言いながら、私は文章を書く者として大変に未熟だ。まだまだペーペーのペー。
昔から本が好きだったとか暇さえあれば図書館に篭っていたとかでもなく、若い頃に賞をとったこともなく、ただ現代文がちょっと好きで、趣味で誰にも見せない小説を書く高校生だった。
そして社会人になってからTwitterというライトな文章を世に放てるツールを通して、もしかして文章を書くの、多少得意なのかも?と調子に乗った。
全く苦ではなくそれこそ息をするように文章を書いているので「あんなに毎日書けるのがすごい」と言われ、noteで長文を書くとたくさん感想が届き、ますます調子に乗った。
でも私の所謂「語彙力」は多分小学生レベル。中学生の方が難しい言葉をよく知っているのではないか。語彙力自体は本当に幼稚だと思う。
それでも伝えたいことに対して、少ない語彙ながらも言葉をさまざまな角度からぶつけて迫っていこうとしている節がある。(これをshinshinoharaさんは「言葉のナタ彫り」と表現されていて、まさに!私がやりたいのは言葉のナタ彫りだ!と思った)
できているかはさておき、どうにかこうにか伝えたいことの核に迫ることに対しては常にあきらめない姿勢でいるつもり。
しかも私にはこの「書くのが苦じゃない」に加えて、「感受性が極めて凡人的」という強みがある。これは頭の良い友人に言われて気づいた。
みんなと同じものをキャッチして同じように感じ、味わっている。
だからそれを書こうとした時に、わかってもらえることがある。
感受性が特殊だったら、特殊な感受性によって受け取られたものが表現された作品に圧倒されて「すげぇ」「わかんねぇ」に行き着くのだろうし、それはそれで芸術家としてド才能なんだけど、私がやりたいことではない。(というかできない)
感受性凡人にしか書けない文章があるってことだよね、芸術としては劣るけど悪くはないよね、と理解している。
そもそもなんで私は文章を書くのが好きなんだろうな、と考えてみたら「もったいないから」だった。
せっかく生まれてきてこの歳までなんとか生きていて、いろんなことが起こる毎日の中で日々いろんなことを考えるけども、このままじゃ "無い" のと同じじゃん!と思っている。せっかく考えたんだから、感じたんだから、出して残さなきゃ!それがどこかで誰かの役に立つようなものなんだったら尚更、出さなきゃもったいないじゃん!というドケチ根性がベースにあった。
なのでXも(Twitterだった時代から)、日記のような遺言のような、そんなつもりで書いている気がする。
(冷静に、私が死んでも文章が残るってすごくない?本体は燃やされて骨になって土に埋められても、経験したことやその時考えた頭の中の方が残るってすごいよね。惜しみなく全部出して逝きたい)
今日この後、年末に亡くなった祖母の通夜がある。
祖母は歌人だった。
短歌を詠むのが好きで、東京の短歌会に度々足を運び、よく賞をもらってたっけ。通夜の会場にはたくさんの賞状が飾られている。
詩が遺るってめっちゃいいな。
私は歌人ではないけど、「作品」と呼び遺したくなる文章を書けるようになりたいものだわと改めて思った。
これからも、平凡な感受性で受け取ったあれこれを、表現力を磨きつつ世に放って遺していけたらと思う。その先で誰かが「これは自分の文章だ」と思ってくれたら御の字!
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今日もここまで読んでくださり、ありがとうございました。
また明日もよかったら!