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【エッセイ】豆腐
私のなかで豆腐の位置づけを決めかねている。
私は冷奴を食べるとき、なんだか醤油をいくらかけてもかけたりない気がして、ちょっと食べては醤油をかけ。またちょっと食べては醤油をかけ。それを繰り返して昔は母によくかけすぎだと怒られていた。
塩分過多になるから、私としても醤油をたくさんかけるのは罪悪感がある。だから今では、外食で冷奴が出るとほんの少しだけ、何なら周りの人よりも少なめに、醤油をかけてささっと口に入れている。周りの目を気にして。なんだかせつない気持ちになる。
塩分過多にならないのであれば、誰も何も言わないし、私自身罪悪感もない。そうなれば私は無限に醤油をかけ続けて冷奴を食べるのに。
冷奴は醤油を味わうためにある食べ物なのだろう、と勝手にそう思っている。そしてそれは家族も同じだと思っていた。醤油をかけたいけれど、塩分過多になるからぐっと我慢しているのだと。冷奴とはある意味そういった試練の食べ物だと思っていた。
けれど違った。
ある日、家族の冷奴に『今日は特別大サービス!』とほんの少しの親切心で多めに醤油をかけてみたら「これじゃあ醤油が多すぎて、醤油の味しかしないよ」と文句を言われてしまったのだ。
醤油の味の豆腐。
それはまさしく全人類が求める冷奴の姿ではなかったのか。知らなかった。みんなが醤油ではなく豆腐の味を味わっていたなんて。
醤油の味の豆腐は好きだ。
けれどそれでは、私は醤油で豆腐の味をかき消していたということになる。醤油の味の豆腐が好き、というのは結局醤油が好きということではないのか。
もしかすると私、豆腐は苦手なのではないだろうか。
そんな大きな不安が頭をよぎった。豆腐を苦手のなかに入れてしまえば、きっともう豆腐は好きに戻れなくなる。考えろ。いやしかしよくよく考えれば普段お味噌汁にも鍋にも豆腐を入れるけれど、豆腐はよけて食べていたかもしれない。
苦手、なのか。いいのか、それで。
いやでも苦手といえば確かに、なかでも木綿豆腐は難関で、特に木綿豆腐の冷奴は醤油9割、豆腐1割くらいの割合でないと食べ進められなかった。これは、本当に苦手なのではないか。恐ろしくなった。これまで好きだと思っていた食べ物が、考えれば考えるほど苦手になっていく。
私のなかで、豆腐は苦手ということで決定か。
そう思われたが、ここで意外なピンチヒッターが現れる。
たまご豆腐はとても好きなのだけれど、それは……?
私はたまご豆腐が好きだ。とっても好きだ。醤油などかけなくていい。そのままがいい。あたたかい炊きたてのごはんの上に、ちょっと外ではできないけれど、たまご豆腐をほどよく崩してごはんにかけて食べるのが幸せだ。あたたかいごはんの上で、たまご豆腐がじんわりとあたたまってとろける。最後の一個ともなれば、じゃんけんして勝ち取りたいくらい好きだ。なにか頼み事をひとつ聞くから譲ってほしいと頭を下げるくらい好きだ。
そんなたまご豆腐にも豆腐と名前がついている以上、当たり前だけれど豆腐なのである。豆腐は苦手、と決めてしまったらたまご豆腐は悲しむのではないかと思った。これまで一緒に戦ってきた仲間を、背後から気づかれないように迫って刺してしまうような、そんな卑怯なことをしようとしていないか。
こわい。私の選択ですべてが変わってしまうなんて。豆腐を好きか、苦手かで、今後の豆腐との付き合い方が決まってしまうなんて。そんな重要なこと、決めかねるだろう。私はこれからどうしたらいいのか。
そんなことを考えていたら、夜が終わりまた朝がきた。
長い時間、ああでもないこうでもないと豆腐のことについて考えていたことに驚く。食べ物のすききらいを、こんなに長く考えたのは初めてだ。
いやこれって。
好きな人のこと一晩中考えちゃう、あれじゃん。
いやなやつ!いやなやつ!と思いながらも、最終回で結ばれる、あれじゃん!!
これはもはや食べ物のすききらいの話ではない。
私は豆腐に恋をしているのだ。
それが私の出した結論である。(午前4時55分)