
【徒然草考:第百十五段】ハングレ
徒然草を読み解きつつ人生のたしなみを学びなおす「徒然草考」。
第百十五段をお届けします。
第百十五段:ハングレ
原文
※古文体が苦手な方は読み飛ばして現代語訳におすすみください。
宿河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外ほかより入り来たるぼろぼろの、「もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、こゝに候ふ。かくのたまふは、誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。
こゝにて対面し奉らば、道場を汚し侍るべし。
前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。
あまたのわづらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。
ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。
近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。
世を捨てたるに似て我が執しふ深く、仏道を願ふに似て闘諍を事とす。
放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしまゝに書き付け侍るなり。
宿河原:神奈川県川崎市宿河原
ぼろぼろ:非僧非俗の無宿渡世人で徒党を組み山に放浪した乞食。
九品の念仏:九品浄土に往生することを願って行う念仏。
わきざし:周りに付きそう者。手下の者。
ぼろんじ:インド、カーストの婆羅門階級の説法師。
梵字:梵志が転訛したもの。外道であり仏門に入った者。
現代語訳
※著者の個人的な解釈による現代語訳です。
宿河原に多くの乞食が集まって九品の念仏を唱えていた。
そこに、他から来た乞食が、「この中に、いろをし房という乞食はおるか?」と尋ねた。
乞食のひとりが、「いろをしは俺だ」と答えた。
「わしは、しら梵字だ。師匠殺しの仇討ちをさせてもらうぞ」と言った。
いろをしは、「・・・そういえばそんなことがあったな。とりあえず、ここで命のやり取りをするのも何だから河原にでも行くか」と言い含めて、二人で河原へ出て行き、派手に刺し違えて、二人とも死んだ。
乞食という身分は、昔は存在しなかった。
最近になって、「ぼろんじ」や「梵字」などと名乗る者たちが現れ始めたようだ。
世を捨てたような乞食の身でありながら、その実、執着心は人一倍強く、仏道を求める一方で争いを好む。
この話、人から聞いたことだが、そのまま書き記しておく。
ハングレなのにお坊さん
第百十五段は、鎌倉時代のハングレについて紹介した記述です。
現代で言うハングレは、暴力団に属さず、暴行や恐喝などを行う不良集団を指します。
暴力団のような組織構造を持たず、緩やかな繋がりで集団を形成し、地元の不良仲間などが中心となっていることが多いそうです。
特殊詐欺、薬物密売、風俗店経営などの犯罪行為で生計を立てています。
若年が多く、SNSなどを利用して仲間を募る傾向があります。
第百十五段に登場するハングレについて、個人的に仮説を立てると次のようになります。
延暦寺や興福寺の僧兵が現代の暴力団に当てはまり、そこから飛び出した無法者が第百十五段に登場する乞食。
ここで言うハングレに該当します。
恐らく、もともとは僧兵であったものの、そこでも持て余されるようなかなりの悪で、寺を飛び出して自由気ままに振舞っているという設定なのではないでしょうか。
しかしながら、彼らは仏法を捨てることはなく、九品の念仏を続けている。
そして、決闘場所も世間の迷惑を考えて選んでいたりする。
ハングレなのにお坊さん。
このアンマッチな感じ、どこか笑ってしまいますね。
そう言えば、源義経の一の家来の武蔵坊弁慶も元ハングレだったんじゃないかな?
しかし、当時においても、反社はさぞ迷惑であったことでしょう。
お坊さんであってもハングレは禁止。
まじめに修行だけしていただきたいものです。
終わりに
お付き合いいただきありがとうございました。
徒然草を題材に、あれこれ想いを巡らせるのは実におもしろいですね。
徒然草を読んであれこれ考えてみたいという方におすすめの書籍をご紹介させていただきます。
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最後までご覧いただき、誠にありがとうございました。
こちらの情報がお役に立ちましたらうれしいです。
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