見出し画像

【徒然草考:第五段】ひきこもってみるのも悪くない

徒然草を読み解きつつ人生のたしなみを学びなおす「徒然草考」。
第五段をお届けします。


徒然草とは

徒然草は鎌倉時代の随筆家である吉田兼好が著した随筆集。
日常生活の中で感じたことを淡々と書き綴り、人の生き方や人間関係の在り方などを鋭い観察眼から問題提起し、豊な気付きを与えてくれます。

考察のお題

第五段:ひきこもってみるのも悪くない

原文
※古文体が苦手な方は読み飛ばして現代語訳におすすみください。

不幸に憂に沈める人の、頭おろしなどふつゝかに思ひとりたるにはあらで、あるかなきかに、門さしこめて、待つこともなく明し暮したる、さるかたにあらまほし。
顕基中納言の言ひけん、配所の月、罪なくて見ん事、さも覚えぬべし。

現代語訳
※著者の個人的な解釈による現代語訳です。

いろいろと悩んだり嘆いたりしている人が、いきなり悟りきってしまうのではなくて、なんとなく意味もなく、生きているというよりも死んでいないぐらいの感じで、ちょっとひきこもってみたり、意味もなくだらだらと日々の時間を漂っているのも、ある意味、理想的である。
源顕基中納言が「配流にされた場所で無邪気にお月さまを見つめていたい」とおっしゃったことにも共感を覚える。

ちょうど良い感じのところを見つけてひきこもってみたい

徒然草の第五段を味わって私はこう思いました。
私も、生きているというよりも死んでいないぐらいの感じで、ちょっとひきこもって、意味もなくだらだらと日々の時間を漂ってみたい。
自分のちょうど良い感じのところを見つけて、気が済むまでそこでひきこもってみたい。

自分のちょうど良い感じのところとは

さて、自分のちょうど良いところとはどこなのか。
たぶん、それは人それぞれ違うので、誰から指図されることもなく、自分で「ここだ!!」と決めてしまえば良いのではと思いました。
ここでは、自分のちょうど良いところを、ずっと漂っていたい場所や時間と定義します。
と、言うことで、ひきこもってみたい「私のちょうど良いところ」について考えてみました。

私のちょうど良いところの候補・計画・条件・準備

※個人的な妄想です。

  • ひきこもり週間を設定する
    まず、引きこもる期間を決めて家族に連絡しておこうと思います。
    心配するとまずいですからね。

  • ひきこもる場所は古民家か土蔵とする
    幸い実家が古民家で土蔵もあります。
    そこに食料を持ち込めば1週間ぐらいはちょうど良い感じでひきこもれると思います。

  • ひきこもり中に食べたいもの
    玄米、柴漬け、サバの水煮、出し捲きたまご、しじみのお味噌汁、ヨーグルト、コーヒー、緑茶
    母屋のキッチンと冷蔵庫の使用許可も必要ですね。

  • 楽器を持ち込む
    ひきこもるには楽しみが必要。
    ストラトキャスター(エレキギター)を持ち込むことにします。

  • 最低限の仕事はする
    締め切りとか勝手に決めているノルマを守るために、ノートパソコン、モニター、スマホ、タブレット、Wi-Fiルーターなどを持ち込みます。
    ゲームやSNSはしません。

  • 運動は欠かさない
    ひきこもりますが、健康への投資である日々のエクセサイズ(6000歩のウォーキング、ストレッチ、筋トレ)は継続します。
    ひきこもりをして太ってしまっては、後々、後悔しますからね。

  • ひきこもり中の課題
    ・太陽と月を見る
    ・意味もなくだらだらと時間を漂う
    ・後学のためにひきこもってやったことや感じたことを記録する

こうしてひきこもりの計画をするのも、なかなか楽しし、悪くないです。
いろいろ考えていて気付いたことですが、ひきこもる意識をしっかり持たないと、結局、単なる帰省になってしまう恐れがあると思いました。

目的意識を明確に持ってひきこもりに臨みたいと思います。
さて、いつからひきこもってみようかな。

ところで源顕基は何をやらかして配所の先で月を見るはめになったのか?

ところで、原文の最後に登場する源顕基は、「配所の月、罪なくて見ん事、さも覚えぬべし」と言っていますが、一体、何をしでかして配所の先で月を見るはめになったのでしょうか?
さっそく、調べてみました。
結論から言うと配流にはなっておらず、「配流にされた気分で月を見るのも悪くない」とおっしゃっていただけのようです。

源顕基
出典:Wikipedia
  • 源顕基(1000~1047)
    平安時代の貴族で醍醐天皇の末裔。
    顕基は後一条天皇の信任を受けて、蔵人頭から権中納言に至りましたが、天皇が亡くなるとそれに殉ずるように官を辞して出家します。
    二君に仕えぬ忠臣だったようです。
    顕基で有名なのは厭世的なところです。
    江談抄によれば、顕基は常にこんなことを言っていたです。
    「咎なくて流罪とせられて配所の月を見ばや(何の罪もないのに流罪にされて配所の月を眺めたいものだ)」。
    配所は都の外の風流でも何でもない場所。
    その荒涼とした土地に浮かぶ月を見て、人生のはかなさを感じたいと思ったとのことだったようです。

この気持ちもわからないでもないです。
しかし、何かやらかして配流になったのではなくてよかったです。

終わりに

お付き合いいただきありがとうございました。
あわせて、徒然草を読んであれこれ考えてみたいという方に、おすすめの書籍をご紹介させていただきます。

電子書籍版の徒然草はこちら

オーディオブック版の徒然草はこちら

最後までご覧いただき、誠にありがとうございました。
こちらの情報がお役に立ちましたらうれしいです。

よろしければサポートをお願いします。