新緑の季節に想うこと
日本の5月は美しい。桜が終わると、木々が芽吹き、新緑が太陽の光を浴びてキラキラと輝く。前半はGWもあるし、後半は梅雨入り前に晴れやかで穏やか気候が続く。そんな5月に生まれたことを嬉しく想うし、人生の門出は美しい新緑に見守られたいと、主人との結婚式を挙げたのも5月であった。
平成が幕を閉じ、令和がはじまった3年前の5月も、美しい新緑の中、家族でたくさん楽しい時間を過ごした。筑波山にのぼったり、キャンプをしたり、友人とデイキャンプでBBQしたり、娘の誕生日のお祝いでディズニーランドへいったり。5月はいつも、楽しい思い出で埋め尽くされていた。その年の5月も、当たり前のように楽しく過ごし、その次の5月も同じように楽しく過ごすことができると当たり前のように思っていたのに。3年前の6月2日未明、主人は突然この世を去った。
それ以来、この新緑の季節になると苦しくなる。今まで大好きだった、この美しい5月を迎えると、胸の奥がきゅっと締め付けられるのである。亡くなった翌年は、亡くなった日までのカウントダウンで辛かった。あの人は、まさかこれが人生最後の登山になるなんて、人生最後のキャンプになるなんて、人生最後のBBQになるなんて、人生最後のディズニーランドになるなんて、知る由もなく過ごしていた。もちろん、私たち家族だって同じだ。あと3日、あと2日、そして最後の日。私たちは、それが彼の最期とは知らず普通に過ごしていて、それが救いではあったが、苦しみも伴った。
昨年は、GWに彼のことを思い出して家族で号泣したことがあったおかげか、幾分吹っ切れていたように想う。GW明けには、長女が一時的に学校に行けなくなってしまったこともあった。そうこうしているうちに命日を迎えたわけで、5月は主人のことを思い出して胸が痛くなるという暇がなかったように想う。それでも、6月2日は朝から仕事が手につかず、急遽有給を取得して、あてもなく車を走らせながら一人でベーベー泣いた。何をみても、彼との思い出が蘇り、息ができないほど胸が苦しくなった。なんで突然死んでしまったのか、なんで私たちをおいていってしまったのか。結婚してから今まで、病めるときも健やかなる時も共に過ごし、老いてもなお、支えあいながら楽しく過ごせると信じて疑っていなかったのに。私一人でどうやって子供達3人を育てればいいのか。子供達が巣立った後、私一人でどうやって老後を過ごせばいいのか。彼との人生しか考えていなかった分、彼がいなくなったことで埋められない穴が多すぎた。それでもその穴を一人で埋めていかねばならず、奮闘はするものの、その穴を一人で埋めるたびに、こんなはずじゃなかったのに、という思いがよぎり悲しくなった。彼を失った今、私の人生は限りなく灰色だ。子供達がもたらしてくれるカラフルな日常も、どうしてここに彼がいないんだろうって思った瞬間に色味が消える。彼がいなくても子供達がいるのに、そこに喜びの全てを見出せない自分に腹も立った。そんなとても複雑で入り混じった感情が、命日をきっかけに溢れ出した。でも命日がすぎると、気持ちも落ち着きを取り戻し、彼がいなくても、日常をこなし、子供達とともに楽しく過ごすことができたし、私の人生も少しづついろんな色が塗り重ねられていった。
今年。彼が亡くなって丸3年を迎える。私たちは、彼のいない日常にかなり慣れてきた。私と子供達3人、祖父母や叔父叔母、いとこや友達に同僚と、周りの人たちの助けを借りながら、家族4人で日々を過ごせている。それは喜ばしいことなのだが、それと同時に寂しくもある。彼がいなくても、やり過ごせるようになってしまった私たち。そしてこの先の人生、物理的に彼が存在することはない。私たちだけで生きていく。子供達の未来に、彼の姿はない。私の老後にも、彼はいない。3年目をむかえる今年は、より一層彼がいない将来のことを憂い、心が痛む。これもいわゆる命日反応で、命日がすぎれば和らぐのだろうか。今はまだ、わからない。
穏やかな陽の光をあびてキラキラと輝く、みずみずしい新緑が私は大好きだ。場所によっては影になる部分もあるし、虫に食われた葉っぱもあるけれど、遠くから眺める分には、5月の新緑はとても美しい。今はまだ、この美しい新緑を見ると、彼のことや、彼との思い出を思い出して辛くなることの方が多いけれど、いつかまた穏やかな気持ちで、この5月の新緑を愛でることができれば嬉しく想う。その時がたとえ何十年後だとしても、その時がくるまでは元気に生きていたい。
おしまい