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title『たまゆらのごとくヒト生まれ』

 神話が好きだ。
 日本の神話はもちろん、ギリシャ・ローマ神話も北欧神話もエジプト神話もインド神話もケルト神話も好きだし、旧約・新約聖書も好きである。
(サムネは無関係のシャインマスカットハイです)

 とりわけ日本神話とギリシャ神話は小さいころから身近だった。幼稚園のころ、『いなばのしろうさぎ』を繰り返し読み、『がまのほ』という見たことのないなにものかに思いを馳せたりしたし、小学生のころは星座の由来を解説している本を買ってもらい、擦り切れるほど読んだ。神話のなにが私をそこまで惹きつけるのか、言葉にするのはどうにも難しくもどかしいのだが、強いて言うならばどの話にも知らない場所やもの、単語が現れ、それがどんなものか想像する隙間があるのが楽しかったのかも知れない。
 それは雲を見て、「あの雲はどんな味だろうか」と指を咥えて眺めているようなもので、見た目が綿菓子のようだからふわふわと甘いのか、実はばりばりとした食感でピリ辛なのかと考えるのに少し似ている。
 神々はヒトとはずいぶん違うところを生きているらしいのに、たくさんの神々が自由に生き、当然のようにヒトと同じに喜怒哀楽に振り回されているのも面白かったと思う。

 日本神話では特に人間などほんの添え物であり、神が人間を作った描写もない。日本神話では、人間はいきなり『いる』ことになっている。そのいきなり加減が自然過ぎて、子供のころは人間がそのシーンで現れたことに気づいてすらいなかったほどだ。子供にすれば人間=自分はここにいるので、本の中に登場していなくても探す必要はなかったのだと思われる。それから、聖書の天地創造の影響もあると思う。人間は神がわりと早い時点で作るものだとなんとなく思っていたのだろう。

 ぬるっと現れる人間が存在感に欠け、特別目立たないのが日本神話の特徴であると私は認識しているのだが、私はなんの専門家でもなく、きちんと神話を学んだこともないただの一般人なので、有識者には鼻先で笑うなどしてこの文章を全て読み飛ばしていただくか、是非『心の中で』毒を吐いていただきたく思う。

 多神教でも人間の創生が描かれているものも多いのに、日本神話で初めに人間に言及されるのは、イザナギ・イザナミのヨモツヒラサカでの別れのシーンである。イザナミが「あなたの世界の人間を1日1000人殺してやる!」と呪いをかけ、イザナギが「それなら私は1日1500個の産屋を建てる!」と呪いを打ち消す。
 天地開闢からここまで読んでふと、「今まで人間はどこにいたのかしら?」と初回から思い及んだ方は私よりも相当優秀である。私はそれに気づいたとき、人間が今まで出て来なかったはずはないだろうと、何度も最初から同じところまで読み直したものだ。長編マンガを読んでいたら、よく知らないキャラが突然活躍し始め、「あれ? こいついつからおったっけ?」となって少し前から読み返してみるのと似ている。
 だが、天地開闢、国生み神生み、何度読んでもヒトの話は出て来ない。私が読んでいたのが現代語訳の古事記であったので、翻訳の過程で端折られたのかと疑ったほどだ。

 しかし、〇〇神が人間をこういう風に作った、という記述がないのは、私をとてもわくわくさせる。というのも、天孫降臨の主役であるニニギノミコトがイワナガヒメを拒否したシーンで、ニニギは神なのに寿命が短くなってしまうというくだりがあり、それはなんとなくニニギが人間になってしまった描写にも思えるからだった。つまり、私たち人間は神の子孫であるという解釈だ。こう言うと不遜だと大変お怒りになられる向きもあるかと思うが、どうかド素人の戯言で機嫌を左右されることのないように願いたい。
 ほかの神話では土や粘土から人間が生まれがちだが、その描写がない日本神話では自分がなにから生まれたかを私たちは自由に定義出来る。私が冒頭の方で述べた神話における想像の隙間というのはこういうところのことだ。

 人間の成り立ちについてを横に置いておいても多神教の神は皆等しく人間臭く、神同士の相関関係などもあり、勝手に面白い想像をし始めればキリがない。私がどこかの神の子孫でなくとも、愛すべき神々が数え切れないくらい世界に存在し、その神が一柱の一神教でも神話はやはり面白い。
 自分ならこの神を、この話をどう書くか、と考えながらにやにや神話の本を読みふけるのも乙である。


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