やさしさの連鎖(with Claude)
吐瀉物の匂いが鼻をつく。
「大丈夫、私が片付けるよ」
そう、これは私の役目だ。
あれは中3の夏。
灼熱の教室で私はめまいに襲われていた。
家庭科の授業中、突如として立ち上がり窓際の流し台へと駆け寄る。
そして、内容物を一気にぶちまけた。
恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになる中、家庭科の先生が言った。
「吐いた人は、吐いたものを始末しなくていいのよ」
「え・・・?」
当時の私には、その言葉の深い意味は分からなかった。
ただ、自分の汚したものを片付けなくていいという安堵感だけがあった。
先生は恐らく、先生として当然のことをしただけだろう。
私は大人が嫌いだった。
特に学校の先生は。
彼らは古い価値観を押し付けてくる存在だと思っていた。
だから、あの時の出来事も、単なる学校生活の一コマとして記憶の片隅に追いやられた。
それが変わったのは、何年も経ってからだった。
ある日、誰かの具合が悪くなった時、ふと私は立ち上がっていた。
「私が片付けるよ」
その瞬間、遠い日の記憶が鮮明によみがえった。
人としての尊厳を守ること。
弱さを見せた人を思いやること。
そして、受け取った優しさを誰かに返すこと。
気づけば私は、あの日の先生と同じ言葉を口にしていた。
それは義務でも、尽くすことでもない。
ただ、あの日無意識に受け取った何かを、別の形で返しているだけだった。
私たちは皆、知らず知らずのうちに何かを受け取り、また誰かに贈り続けている。それは目に見えないけれど、確かに存在する「やさしさの連鎖」だ。
人は、誰かにしてもらったことしか人にできない——そう思っていた。
しかし今は違う。
私たちは、受け取った優しさを、まったく違う形で誰かに贈ることができる。
それが、この連鎖の不思議さであり、美しさだ。
私たちにできる「未来のため」の行動は、壮大なものである必要はない。
日々の小さな思いやりの積み重ねが、やがて大きな波紋となって広がっていく。
あの夏の日、流し台の前で感じた複雑な感情。
恥ずかしさ、申し訳なさ、そして不思議な安堵感。
それらが今、温かな思い出として蘇る。
そして私は気づく。
あの瞬間こそが、私の中で「やさしさの連鎖」が始まった瞬間だったのだと。
当時は気づかなかった。
先生も特別なことをしたつもりはなかっただろう。
でも、それが私の中で静かに芽生え、長い年月を経て花開いた。
今、誰かの具合が悪そうな顔を見るたびに、私はあの先生の言葉を思い出す。
そして、この連鎖が途切れることなく未来へと続いていくことを、心から願う。
それが、遠い夏の日に無意識に受け取った贈り物を、意識的に未来へとつなぐ私なりの方法なのだから。
***
この文章は、私が書いた「遠い夏の日の吐瀉物」というエッセイを使っています。Claudeに入力して、何度も指示し書かせたものを少しだけ推敲しています。
Claudeというのは生成AIなのですが、かなりすごい、ということで。
ふと思いついてやってみたところ、なかなかエモい文章を出してきました。
タイトルも勝手に提案してきました。
なるほど。
文章の奥に流れる見えない意図をきちんと把握し、テーマを強調して、足りない部分は創作されています。
つまりは現実を捏造している訳ですが、創作においては許される範囲かな。
文章を書く時は自分が主眼となるのですが、つい力が入りすぎていたり冗長だったりする部分もある。
それをAIに推敲させてみると、文章がスッキリするし、書きたかったポイントを浮かび上がらせてくれる。
そして文章のクセが違うので、別の人が書いたみたいな文章になって、自分の文章なのに新鮮に読める。
別の視点が得られるなぁと思いました。
これを加味して、オリジナルの文章を再構成していく、という書き方も良いかもしれないと思いました。
ChatGPTにもやらせてみたので、ご覧ください。
みなさんは、どのエッセイが好みでしょうか。
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