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季節を感じる

爽やかな風とグラスに入った麦茶はもうそぐわない時季になった。 
晴れた日の朝に走る、涼しげな風。
揺れたサンキャッチャーが無機質な部屋に光をもたらす。カランと氷が溶け合い、反射した光がより麦茶を香ばしくさせていた。
もちろん数時間後には、灼熱の暑さが街全体を覆う。その前にある唯一の優しさは、どこか遠くへ行ってしまったようだ。

数日で一気に秋へと染まった街。なんだろう。「はいはい、秋ですよ〜」と言わんばかりにいい加減なのは気のせいだろうか。
せめてもう少し、移ろいを豊かにできないものだろうか。それとも、こちらが季節に対して厳しいのか?


おばちゃんの家に遊びに行くと、まず玄関に大きな壺があって、その中に季節の花が飾られている。おばあちゃんが活けたものだ。そして必ずテーブルには季節のたべものが添えられている。6月は水無月、真夏になるとスイカとか、マスカットとか。
今日は何出てくるのかな。毎回とってもわくわくする。
楽しみとはこういうことだ。
毎日に楽しさを見出せず、やる気が起きない日。つまらなくて、何も変わらない日。おばあちゃんの家だけはいつもいっぱいの色があって、楽しみに溢れていた。


家に帰って同じ幸せを味わうにはどうしたらいいのだろうか。旬の果物を買う?花を買う?それも毎回?正直、旬の果物は高いし、花を活けてもすぐ枯らしてしまう。ズボラなわたしには綺麗に保てる自信は皆無だ。そういうのは「たまにおばあちゃんの家で楽しむ」くらいがちょうどいい。

何かないのかな。道端で何か落とし物を拾うような、そんなささやかな日々のたのしみ方。道端に咲いている花の成長を見守るだとか、草木の成長を心で賞賛するとか。
秋限定のお菓子を買ったり、月見バーガーを頬張ったり。
真っ赤に染まったもみじや、いちょうの葉っぱを手にとるだけでも、季節を楽しめるかもしれない。今日は一駅分歩いて、景色を一枚だけ写真に残すというルールを決めても面白いかも。ちょっとの楽しさが、たぶん、自分のちいさな喜びになる気がする。

適当に生きてきた。
季節とかどうでも良い。夏が来れば半袖を出し、決まり文句を吐きながら冷たいものを流し込む。言い換えるなら“無頓着で順応上手”かもしれない。
当たり障りのない質問ワードの上位にランクインしている「好きな季節なに〜?」
この言葉には、かなり悩まされた。
季節の果物、置き物、花。そんなものに目を向ける余裕はないし、それらを摂取したところで賢くなるわけでもなければ、何かが変わることもない。
ただ、楽しむ心があればそれだけで日々の楽しみ方が変わる。日々に彩りが加わる。余裕ができる。自分に優しくなれる。

わたしは冬が好きだ。もこもこのアウターに身を包み、カイロ片手に白い息を吐きながら、澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んで、さむいねぇ。もう冬だねぇ。と呟く。
家に帰って部屋があたたまるまでに飲むほかほかのミルクティーは、救世主って感じがする。
ただ、そんな時に限って夏の冷たいグラスいっぱいに入った麦茶が恋しくなるのも事実だ。

案外、楽しさは自分の近くにあるのかもしれない。日常の中から探すのも、アリなのかもしれない。
ささやかな地球からのプレゼントに喜べる余裕が少しでもあればいいなと思う。
今年の紅葉は例年よりだいぶ遅めな気がする。楽しみが少し伸びた分、その期間もじっくり味わえると思うと嬉しささえ感じる。

明日はどんな自然に何を感じるだろうか。
季節とともに生きるのは、楽になることなのかもしれない。


p.s.名前変えました!

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