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「ささやか」

ずっと親に罵倒されるから、疲れてしまった。
何を言っても言い訳にしか聞こえないみたいだから、わたしが何を言っても無駄状態。だけど今日はこんな気持ちもどうでもよくなった。

 別大学の友達と久しぶりにご飯を食べた!
もう話がメインであんなに美味しかったピザの味今では思い出せない。彼女の饒舌さには舌を巻く。それでもって話し方や内容はぜんぶ面白くて、人を小馬鹿にしていないところとか、多少口が悪くなったとしても決して他人の気遣いを忘れていないところとか、話が盛り上がると無意識にストローでグラスの中の氷をミキサー並みの勢いでグルグル回していたところとか、声が交わる瞬間にお互いがスンッて控えめになっちゃった時間も、ぜんぶ好き。

 食べたものが胃の中でぐちゃぐちゃになっちゃうくらい笑い合った。普段は使わないお腹の筋肉を最大限に使ったせいで、今ならバリトン歌手くらいなら余裕でできそうである。喋っているうちに氷が全て溶けて薄くなった紅茶、全く減ることないスマホの充電、ぐわんぐわん揺れる感情、笑えば笑うほど霞んでしまった声。ちゃんと心から笑えてて、お腹の底から声を出して、今、彼女と生きている。笑うってすごい。いつもぐるぐると襲ってくる不安や他人の目、自分に対するマイナスな感情も、どれもちっぽけに思えて、どうでもよくなった。「生きていること」を実感させられた時間だった。

 家に帰れば、生きている私を駄目人間のように扱う親が、私の帰りを待っているだろう。我ながら不憫に思う。だけど、彼女との時間にはこんなものに負けないくらいのたのしいパワーが残っていて、今でも私の心の中心で燃え続けてくれている。とてもありがたい。おまけに誕生日プレゼントと言って貰ったリップまでわたしの味方でいてくれている。
 思い返してみれば、彼女はわたしが学校に行けてなかった時期、つらかったとき、いつも私にLINEで楽しい話をきかせてくれた。そばに居てくれた。照らしてくれた。なんて私は幸せなのだろうか……!

 私は誰かに、彼女のような存在で居られているだろうか。もしくは、居れたときがあっただろうか。誰かを不意に助けたことはあるのだろうか。
彼女は多分、「誰かのためにやっている」という意識は持っていないように感じる。それは優しさが無い云々ではなく、直感的な楽しみをただ共有しているに過ぎない行動だと思う。実際に「大丈夫だよ、辛かったね」とか、私が疲れている認識をした上で選んでいる言葉はひとつもないし、何か気を遣ってどうこう支えるよ、といった補助的な優しさが伝わったことは、今まで一度もない。
だからこそ、彼女が知らず知らずのうちに私を救ってくれていた、みたいなものが多すぎる。
ささやかだなと思う。そして同時に、「他の人に与えるささやか」を自分は気づけているのだろうか、とも思う。

 彼女の底抜けな明るさと優しさに私はたびたび救われる。わたしがたまたま疲れていたから気がついたのかもしれない。それも「ささやか」という救いの種子には普通ならならないのかもしれない。

 わたしはこれからもいろいろな、私が勝手に解釈した、「ささやか」に触れていくのだろう。わたしはその「ささやか」を素手でたいせつにこれからもできるだろうか。

 夢は諦めないし、我が道を進んでいきたい。これはとてもかたい私の信念。だけれど「ささやか」な心の変化にもだいじに触れていきたい。
 柔らかな信念がひとつ増えた、今日、1日だ。

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