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classic

 前回の記事があまりにも個人的だったので下書きに戻した。日記は完全に個人のものだけど、その私生活をどこまで曝け出して書くかはその人次第、どこまで他人に読まれてもいいラインかそうでないかの塩梅が難しいなといつも思う。

 今日は指揮科の講座の本番で横浜まで行った。リハが終わり本番までの少ない時間で、ケータリングに並べてある崎陽軒のシウマイ弁当をいただいた。シウマイのウマイの部分。美味し過ぎて、もしかして今日はこのお弁当を食べに来たのかと思った。本番でモーツァルトの協奏曲を演奏している時に、〈私モーツァルト好きすぎるわ〉と何度も感じた。特に3楽章の展開部で同主調に入る時に、一瞬、間が空く部分があるのだけれど、そこで曲想がガラリと変わる瞬間がたまらなく、ぁぁ、天才よ、ずっと私の中で生きてくれ、と念じながら、わたし自身が曲の一部になればいいのに、と思った。
 自分を良く魅せるために音楽をやってはいけない、とつくづく思う。芸術の再現、音楽の発展。これらを念頭に置いて楽譜と真摯に向き合い、自己感性を磨きながら音楽を創らなければいけない。最近は本当に本当に、いわゆる「超絶技巧」の曲を披露してその技術を賞賛されるような舞台ばかりで、素直に音楽そのもの、作曲家の意図を感じない、楽しめないコンサートが多いなと思っている。こんな事を書きながら自分はどうなんだと言われれば、それはもう地獄に落ちてもおかしくないので、より精進しなければいけない。ただ、なんのために音楽をやっているのか、ここは明確にしておかなければいけない、と、さも芸術学生、音大生のような発言を残しておく!
 なんか真面目な話になってしまった。クラシック音楽はずっと継承され続けるものだと勝手に思っていたけれど、今ではクラシックを聴く人は人口の4%とか言われていて、めちゃ少ない。音楽は聴き手がいてこそ成り立つもので、更に演奏者が居ないと元も子もない。友達に話しても、クラシックは敷居が高いと言われてあまり踏み入れられない。それはピーマンを食べずに嫌うのと一緒じゃん、と悲しくなるのだが、すこしでもクラシックが知られるきっかけをつくることが現代で音楽をやっていく上で最も重要なのではないかと、そう思いながら瞼を閉じた昨日だった。

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