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劣等感 洗って もう一度着る

春が突然やって来て、満開の桜が圧倒的に美しくそわそわと落ち着かない気分で毎日を過ごしています。「せっかくだから」「今しか見れないし」と勿体無い精神で花見をしてみても、なんかこう、雑草とかタンポポとか、もういっそ道端に落ちてるゴミとかの方が落ち着くなぁといった具合でどうしても美しい春の陽気に置いていかれた気分になります。春の嵐が吹き飛ばしてくれるまで、こんな気持ちは続きそうです。

エイプリルフールにくだらない嘘を垂れ流して、花見を楽しむ無邪気さを羨ましく思ったりします。捻くれて毒づいているよりずっと健康で可愛いじゃないかと。「無邪気」「素直」「明るい」「かわいい」に対しての劣等感は大人になってもずっと消えないままでいます。

高校生の時、私には同級生に好きな男の子がいました。彼は明るくて優しくて音楽が好きな人でした。彼のことでよく覚えているのがプールの授業の時の事です。男女合同だったのでそこには彼の姿もありました。プールサイドで準備運動か何かをする時にその彼が「毛深い」事を他の男の子達に大きな声でからかわれていました。彼は正に“茹で蛸”のように顔を真っ赤にして照れながら、それでも笑って「俺毛深いからさ!別にいいだろ生まれつきだし!」って明るく答え、からかった方の男の子達とまた笑い合って楽しい雰囲気のままその話題は終わりました。衝撃でした。身体的なコンプレックスを大勢のクラスメイトの前で笑われたのに、明るく笑いで返せるなんて信じられない思いでした。真っ黒なコンプレックスの沼に浸かっていた私はそんな彼の強さが眩しくて、とても好ましく思い、憧れたのかもしれません。

そして彼には彼女ができました。彼女は小柄でスタイルが良く顔もすごくかわいい。高校生なのに既に赤や紫のセクシーな下着を着けていて、プリクラで胸の谷間や下着を見せては扇情的な表情で写るような女の子でした。私はそんな彼女の事が苦手だったし、彼がその子と付き合っていると知った時は「君は他とは違うと思っていたけど、一緒だったのか」と勝手に裏切られたような気分になり落胆しました。そして同時に「そりゃ当たり前だ」と思うのです。かわいくてエッチな女の子なんて完璧じゃないですか。暗くてブスでデブでチビで不登校気味のあだ名が「貞子」だった私に彼女に勝る魅力がひとつもない事はちゃんと理解していました。私だって彼女が良いです。

あの時の「そりゃ当たり前だな」はいつだって世の真理で。敵うわけもないので、生まれ変わったら「翳りのない真っ直ぐで可愛い女の子」になりたいと、そう願うばかりです。


「劣等感洗ってもう一度着る」

ってTwitterで言葉を作品にしてる方のやつで見て、心にピッタリはまってとても気に入った言葉なので心の標語のように使っています。

劣等感しか着れなくても私は一着しかないので、やっぱり大事に洗ってもう一度着ます。

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