玉手箱を開ける鍵のような「匂い」に一段と敏感になった
匂いに敏感になった。ウイルスから身を守るために、マスクが日々の必需品になって早8ヶ月。マスクをしない日なんて家に引きこもっているときくらいで、マスクをしないと外には出られないし、なんなら替えのマスクを2枚程度所持している。
だけどマスクは、匂いもまでシャットアウトしてしまう。鼻から香るのは自分のマスクの匂いだけで、最近はフレグランススプレーをマスクにかけて、匂いを楽しんでみる。
今の時期は街を歩けばキンモクセイの匂いがふわふわと漂って、甘い懐かしい初恋のような匂いに安心しているはずなのに、今年は全然匂わない。
そりゃそうだ。マスクをしているからだ。匂いに気付きずらくなっているのだ。
人がいない住宅街を見計って、マスクを外して思いっきり息を吸う。その瞬間、一気に体に取り込まれていく懐かしい甘い秋の匂い。
それと同時に冷たい夜の匂いと柔らかい風の匂いが、一緒に体内にじわっと吸い込まれていく。ああ、秋だ。知らない間に秋になっていた。
起きて窓を開けて、深呼吸をして新鮮な空気を取り込んだときの、朝の匂いが大好きだ。日の匂いとどこからか香る風の匂い。今日もわたしの一日が始まると、教えてくれるその匂いが大好きだ。
匂いは、人の記憶に強く残るという。街ですれ違ったときにふわりと香る、知っている香水の匂いで昔の人を思い出すのも、そのひとつだ。
振り返ってもそこには誰もいないのに、もうずっと昔にわたしからさよならを告げたはずなのに、無意識に目で探してしまう。匂いは玉手箱を開ける、鍵のようなものだ。
毎日必死になって生きていると、日の匂いとか風の匂いとか、春の匂いとか秋の匂いとか。人工的なものではない自然の匂いを忘れがちになる。空を見上げて星を見ることもなくなれば、深呼吸する時間も忘れてしまう。
毎日ちゃんと生きていくために、わたしには匂いが必要で。ちゃんと生きてることを自分自身に証明するために、深呼吸をする。
そんな生活からマスクが必需品になって、深呼吸すら怖くなった。匂いがわからなくなった。
せっかくの雨の日も、せっかくのキンモクセイの匂いも、せっかくの夜の匂いも。全部、全部、マスクが取っていった。マスクをしていると、生きてることを忘れてしまう。なんだか怖い。
だからたまに、マスクを外して体いっぱいに空気を取り込むと、世界にいろんな匂いがあることに気付く。匂いに敏感になる。
ああ、生きてるんだって。わたしは今、今の匂いを感じてるんだって、実感する。
もうすぐ、クリスマスの匂いがしてくるのかな。