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才能って自分じゃ気付かないから気付いたらラッキーだ

ひらやまさんの「note読む」という企画で「文章の書き始めがいい」と言われたことがある。ひらやまさんはエッセイの書き始めに悩むようで、さらりと文章を書き始めるわたしのことを、褒めた。

わたしは自分のことを、才能のある人間だとは思っていない。だけど、わたしのエッセイの生み出し方は独特で、こうして文章を打っている間にも、なにかしら感じていて、それを頭の中で言葉にして、文字を打つ手が止まらないのだ。

だから、わたしの書くエッセイの中には書き始めがない。終わりや結末、言いたいことは大体決めていても、気づいたら文字を綴っていて、最初と真ん中で書きたいことは、頭の中で考えたことをただひたすら手を止めずに文字を打つだけなのだ。


エッセイを書き始めたのも、これまでWebライターとして文字を綴っていたときに感じた、自分の気持ちを入れ込みづらい、入れるのが得意じゃないという違和感から。

高校を出て大学を卒業して、新卒という最強カードを持ち合わせて就職したわたしがフリーランスライターという世界に飛び込んだ時、まったくしらない世界が広がっていた。わたしも彼らのように、文字を自由に操って、ちゃんと言葉を選んで、誰かに届けたいと思った。3年経っても鳴かず飛ばずだった。

そしてわたしはエッセイに出会った。わたしの知っているエッセイはいわゆる「エモい」ものとして捉えられていたから、エモいエッセイを書くことに大きな抵抗があった。そこで、夏生さえりさんの言葉に出会った。

エモいけど、ストレートな言葉選び。すぐ頭の中に浮かび上がる表現方法。柔らかく包んで肯定してくれる優しい言葉や間。すべてに虜になった。

わたしも、こんな風に自由に言葉で遊びたいと思った。書いてみたらあっていて、でもお金は稼げなくて。わたしは生きるために、エッセイを書き続けるために就職をした。


才能は、誰がどう見るかによって変わると思う。わたしは自分を才能のある人だとは思っていない。いつでもどこでもエモく刺さるエッセイが書けるわけじゃないし、お金もいいねも稼げない。

わたしが思う才能の塊は、あいみょん、米津玄師、菅田将暉だ。同世代だからというのもあるけれど、彼らは生まれ持った才能と努力を正しく使って、今に在ると思う。

わたしもあいみょんのように、深夜の公園でギター片手に思い出話から曲作って菅田将暉にあげたいけれど、わたしにはそんな才能は備わっていない。

だけど、ひらやまさんは褒めてくれた。もしわたしにも才能があるなら、きっとたくさん言葉を生み出せることだと思う。考えることが趣味のようなもので、口に出すのも言葉にするにも、頭の中で考えていることのほんの数パーセント程度だから、刺さる言葉選びができるかとか、ちゃんと言葉がつかえているかどうかを抜いて、わたしは言葉を生み出せる。


きっと、わたしのエッセイは、いろいろ考えてもいいものにならないかもしれない。数を打たなければ、刺さらないとも思っている。

だからこうして毎日エッセイを書く。今はわたしの思考整理のためやちょっとした心の内を晒して楽になるための武器かもしれないけれど、いつかだれかの背中を押したり、だれかの心に刺さったりする文章が書きたい。

それまでの間、わたしの才能である「言葉を生み出す」を上手にコントロールできるように、いつかあいみょんを超せるように、歩みを止めずに前に進もうと思う。