雑文 #113
シャレになんないくらい雪が降ってる。
掻いても掻いても降り積もり、払っても払っても降り注ぐ。
一日中途切れなく降っているので感心してしまうほどだ。
映画『沈黙』を観た。
私は遠藤周作の原作を読んだときのことをよく覚えている。
私は風邪を引いて熱があり、高校を休まなきゃいけなくて、親の本棚にあった『沈黙』を何気なく手に取って布団に入った。
その本は古く、分厚くて二段構えの細かい字で、いかにも眠くなりそうだと思ったんだろう。
ところが私はそれにハマりにハマって一気に読んだ。
高校生という、情熱が体力に負けない年代だったので、風邪なんか熱なんか吹き飛ばすほどその小説には力があったのである。
遠藤周作の作品はこのとき初めて読んだのだと思う。
時は移ろい、私は最近ハマっているマーティン・スコセッシ監督の最新作を嬉々として観に行った。
あらすじは覚えていたが、監督の描きかたに興味があったし、物語の細部など忘れてしまっていたからだ。
意外だったことに、作品を味わったあとの感覚は高校生のときと一緒だった。
これはすごいことなのではないか?!
私は当時と変わらない感覚をいまも持っているということだ。
エンドロールまで全部観るほうがいい。
すべてが終わって映画館が明るくなり、階段を降りながら私はふらっとした。
そのとき思い出した。小説を全部読み終わり本を閉じたときの感覚を。
同じだったのだ。
それに、イタリア系アメリカ人であるスコセッシが遠藤周作の原作をこんなに噛みしめることができたのもすごいと思う。
遠藤周作もカトリック教徒、スコセッシもおそらくそうとは言え、『沈黙』は決してカトリック万歳な描きかたはされていない。
テーマはもろに信仰だが、キリスト教のことだけではなく、人間や社会が描かれていると思うのだ。
江戸幕府はいかにもいやらしそうに描かれていたけど、それだって見かたを変えれば、当時日本がすべて西欧化されることに危機感を覚えてもおかしくない。
これまで私は鎖国はただ悪いものだって思っていたけど、それなりに必死だったのかなと思えてきた。
それと言うのも、キリスト教信仰の中枢に「赦し」があるから考えさせられるのだ。
すべてを許せるのだったら、信仰を棄てる(またはそのように振る舞う)自分も許せるのでは?
私は何の信仰も持たない一般的な日本人で、ただなぜか神社に行くことが好きな程度だ。
でも何でも許せたら、だいぶ生きるのがラクになるだろうなぁ。
許せないから、苦しむのだ。
日本人キャストがとても良かった。
窪塚洋介、塚本晋也、浅野忠信、イッセー尾形。
とても重い映画で、苦しくて途中泣いたし、疲れたけど、私はうれしかった。
正直もう生きていてもしょうがないのではと思うくらい落ち込むことがある。
だけど、私はまだ物語でこんなに感動できるんだ。
いい作品にこれからもまた出会えるかもしれないんだ。
しかも、高校生時分と同じような感覚で受け止められることもあるんだ。
…成長してないのか、ってのもあるけど。
私は今日『沈黙』を観ていて気づいた。
ひとが何かを「信仰」するのは、純粋さを求めてるからなのではないかって。
大人になると、妥協したり諦めたり失敗したりして失われてしまう純粋性。
信仰する気持ちはとにかく純粋だから、そういう自分になりたくなるもんなんじゃないかなって。大人ってもんは。
私は特定の信仰は要らないみたい。
だって特別に大好きなものがあるからさ。