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雑文 #103
急に寒くなってきた東京。
高校卒業後、上京して15年くらい住んでいた頃には、まだそんなに自然に飢えていなかった。
ある程度確かに飢えていたけど、東京にこんなにも秋の花(コスモスやワレモコウ、秋明菊やクジャクソウなど)が生えていないなんて。
秋風に揺れるさまが特有な優美さを醸し出す、あれらのたおやかな花々が、都心にいるとなかなか見られない。
あのふうわりとした切なさは、密集している公園や畑よりか、ふと道端で見つけて感じたい。
そう言えば20代後半には、山に行くと大はしゃぎして野花を摘んでいたっけ…
私は秋を愛する人なので、東京の秋は深みがなく色気がないなあと、そのことに関してばかりは、秋田に帰りたいなあと思う。
まあ23区を出たらもっと違うかもしれないけど、北東北の…いや秋田の秋は日本一美しいって信じてしまっているものだから。
ススキが一堂に揺れ稲穂が見事な黄金色に輝く風景が見たいのだ。
一方私は文化を求めてやまない人種。
都会には文化が溢れてる。
大学進学で上京したときにはあまりの文化量にクラクラするほどワクワクしたものだ。
先日、20代の前半〜後半に勤めていた会社の前を通った。
正確には会社は移転していたので、会社があったビル(いまは飲食のチェーン店が入っている)の前を、通っていたのと同じ地下鉄に乗り出口を出て、お昼ごはんを買いに行ったコンビニや近くの食堂、スタバやかつて気に入っていたレストラン(もう別の店だらけになっていた)、ちょっと気晴らしに歩いた裏の坂道や昼休みにポーッとした広場、かつての職場であった様々なこと…などが走馬灯のように巡ってきて、懐かしいというよりか、不思議な気分になった。
あれはあれで私だったのだよなあ…と。
あの頃はあまりにも予測できなかった私に、いまなっているなあと。
ごめんね。
確かに辛かったこともあったはずなのに、思い出はいつも清き優しきベールに纏われる。
みんな、元気かなあ。
ところでNOW AND 弦のライブ以来ほんとにくるりを聴いていない。
ファンになってから約9年のこれまでの間で、空前の聴いてなさかもしれない。
(自分自身に人生を揺るがすほどのショックな出来事があって何の音楽も聴けなかったときを除いては)
今日ラジオで「WORLD'S END SUPERNOVA」を聴いたとき、新鮮な気がした。
そもそもこの9年みっちりと繰り返し繰り返し飽きもせず聴きすぎたんだと思う。
私は凝り性だと思うけれど、マニアとかオタクではないと、自分的には思っていた。
しかしくるりを好きになってからの行動は、それであったと、認めざるをえない。
やり過ぎて少し疲れてしまったので、ここらで休みたい。
前の前の雑文でも書いたが、NOW AND 弦でとんでもなく素晴らしいくるりのライブを体験できて溜飲が下がり、幾分スッキリしたのだろう。
20代のその頃の私といまの私は一方でちっとも変わってないようであって、他方でぜんぜん変わってた。
少なくとも30代に起こるあの恐ろしいことがなければ、私はいまでもくるりを知らなかっただろう。
そういうことも含めて、かつての職場の周りを歩いたことは、人生万事塞翁が馬というか、不思議なことであった。