「太陽の子」から祖父を想う。-いっぱい、未来の話、しよう-
「いっぱい、未来の話、しよう」
縁側で、世津が修と裕之の手を取り合ったときに、裕之の言葉。
この言葉を聞いた時から、ずっと祖父のことが心にある。
「太陽の子」を見てからも、それは変わらず、祖父のことばかり考える。
私の中で「戦争」といえば、戦争経験者の祖父に繋がるからかもしれない。
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祖父は目が悪かったし、歯医者だったので戦場にいくことは免れたが、戦場での医療現場、野戦病院というのだろうか、そこに従事していたらしい。
根っから鈍くさかった祖父は、体罰が普通だった頃ということもあり、よく上司?に殴られていたらしく、「あの頃のせいで奥歯がない。歯を大切にといっても説得力がないんよ」とよく嘆いていた。
そんないやな思い出も多い祖父は、戦争の話をすることをとても嫌った。
戦争物のドラマや映画は絶対みなかったし、私たちが少しずつ戦争を理解してきても、「かたりべ」の方たちのように、自ら教えてくれるようなことはしなかった。
とにかく戦争のことは思い出すのもイヤだといっていた。
そんな祖父が、一度だけ、原爆資料館に連れて行ってくれたことがある。
あれは私が小学校4、5生くらいだったと思う。
夏休みにみんなで広島に遊びに行くのは定番イベントだったけど、原爆資料館にいくことにしたのは、祖父からの提案だったらしい。
でも同じく戦争経験者の祖母は、その時は一緒に出掛けなかった。
当時の原爆資料館は、今とはまったく違い、とてもおどろおどろしい感じがただよっていた。その中に、焦げた洋服や文房具はもちろん、真っ黒になったお弁当箱、洋服、人影が焼き付いたブロック塀、とにかく色々なものが、信じられない様子で展示してあるのだ・・・初めて見たので、本当にこわかった。
一番怖かったのは、顔や体が焼け焦げたような親子が戦火から逃げている親子の人形があって、私はいまだにその光景を覚えている。
まだ小学校1年生くらいだった弟が大泣きしだしたので、私は我慢をした。
私たちに自ら戦争について話してくれたのは、その時くらいだったと思う。
あまり話したがらなかった祖父は、あの時はなぜ、私たちに見せておこうと思ったのだろう。
私たちに何か伝えなくては、と思ったのだろうか。
今となっては、理由はわからないけれど、毎年思い出すのだ。
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原爆投下のあった8月6日。
祖父は小倉の野戦病院にいたそうだが、本来ならば、翌日から船で出港する予定だったそうだ。船に乗ることになったのは、医療のためだったのか、燃料を運ぶためだったのか、この辺の理由は忘れてしまった。
本当は原爆は小倉に投下されるはずだったらしい。8月6日の小倉上空の天候がよくなかったらしく、急遽、広島に場所変更されたらしい、という話をしてくれた。
もちろん船の出港は中止になり、急遽、広島の救護活動にいったらしい。
建物がくずれた中に、私が怖いと思った戦火を逃れる親子のような人たちだけではなく、亡くなった方もいっぱいいたそうだ。
そういった祖父がみたものは、修たちが降り立った広島のような「モノクロの世界」そのものだったのではなかったかと想像する。
「おじいちゃんはこの世にいなかったかもしれないんだよ」・・・そんな風にいわれて、「えー、やだー!」なんて言いながら平和記念公園の外でジュースを買ってもらった記憶がある。
「広島にこんなに木がきちんと育つと思っていなかった」とも言っていた。
そして、広島に木が生き生きと育っていることは、広島に行くたび、広島がテレビにうつるたびに言っていたことだから、それが心の底から嬉しかったんだろうな、と思う。
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祖父は、「戦争について語り継ぐ」「風化させない」というよりも、自分が若かった頃にできなかったことをたくさんしてほしい、と伝えたかったのかなとよく想う。
弟や従兄弟には、仲間とスポーツをたくさんして欲しいと、私には、世界をたくさん見て教えて欲しいと、よく言っていた。
戦争について知って、それらを風化させないこと・・・それはとても大切なことだけど、未来の話ができることや、夢を語れること、それを叶えることができることのありがたさ。
自由もあまりなく、いつ仲間と別れることになるのかもわからない。。。
自分の孫たちの未来には、そんな不安定な感情とは関係ない物であってほしいという思いの方がが強かったのだろうか、祖父なりに伝えたかったこと、少しわかった気がした。
祖父もきっと仲間たちと「未来の話」をしたのかもしれない。縁側で笑顔で、それぞれ思った3人のように。
未来の話をしようといっても、明日どうなるかわからない若者の想いを想像すると、はかりしれない程苦しい。本当に未来をまっすぐ見つめられたら、それは幸せだけど、でもきっとそんな余裕なんてなかっただろう。
どんな状況下だったのかは、いまはもう確認もできないから、わからない。
終戦になり、生き延びたときは、肩身が狭いこともあったといっていた。
まさに「俺だけ死なんわけにはいかん」ということだろう。
でも祖父が生き抜いてくれたおかげで、私の命がある。大好きな祖父から繋げてもらった命。
祖父がいやがったとしても、戦争についてもう少し聞いておけば良かったといまは思う。もう誰にも聞けないし、甥っ子や姪っ子に聞かれたとしても、戦争経験者の祖父から直接きいた真実の話は、小さなことだとしても、やっぱりとても貴重な経験だ。
仕方ないこととはいえ、今の子供達は知る機会がとても少ない。
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8月6日の朝に広島の風景がTVで映し出されると、もうかなり前のことなのに、祖父がつれていってくれた時の、あの広島を思い出す。
今の広島とは違う、ひと昔も、ふた昔の前の広島のはずなのに、なんだかあの場面だけは鮮明に覚えているから不思議だなと毎年おもう。
そしてこれからは、「いっぱい、未来の話、しよう」という言葉も一緒に思い出すんではないだろうか。。。そして、縁側でそれぞれの未来を思った3人のことも一緒に。
2021年8月6日に公開されたこの映画、毎年この時期に限定公開してもらえたら嬉しい。映画を通して、戦争を知らない子たちに伝えていけたら、とても素敵なことだと思う。
そんな風に思った今日は13回目の18日だ。
意識しないようにしていても、やっぱり意識をしてしまうのが、18日。
ちかいうちにまた「太陽の子」をみにいって、映画の中の3人のこと、そして大好きな祖父のことも、じっくり想いたい。