デザインなんて語れない 1/3
もももろうです!
おはよう!こんにちは!こんばんは!
突然なんですが、最近、個人のクリエイティブ活動がすごく盛んになってきて「一億総デザイナー時代」とかいわれているみたいなんですよ。どうやら。
これはわたし的には、非常に好ましい傾向だと思っていて、皆さんがものづくりを通して喜びを感じて、人生の質が上がったらもうそれは最高にハッピーやなぁなんて思っています。
ただ、そんな世の中のことを考えていると、これまでの事を色々思い出したりしまして、、、これが「寄る年波」ですかっ!
だから、今日は照明の事はちょっと置いといて、そんなデザインの話をしようかなと。
でもこれ、たぶん「うっ」てなる人がいると思うんです。
「絵を描くこと」で書いたような事でもあるんですが、創造性をはらんだ言葉って、苦手な人からすると「うっ」てなるんですよね。言葉だけで。
センスとかも「うっ」でしょ?
はいはい、出ました。センス、センス。
自分にはない特殊能力の話ですよねーみたいな。
分かります。わたしも初めはよく「うっ」てなってたんです。
でも、大丈夫!
今日は他でもない、単なるわたしの身の上話なんで「うっ」てなりません!
なんなら私が「うっ」と向き合った話です。
でも、わたしのことが苦手な人は「うっ」てなります!
そして、そんな方がおられたら、わたしは、、わたしはぁ、、うっ、、泣
、うぅっ、、泣、、、やめましょうね。
さて、これは今に始まったことじゃないんですが、デザイン関係の仕事をしている人は、たいていの場合、デザインとは?ということをどっかで考えたりします。
デザイナーと呼ばれる(名乗る)人、それを目指す人たちは自分の中で「デザイン」を何度も何度も整理するんですよね。それって何なんよって。
学校で習う人もいれば、上司に教わる人もいる。
仕事を通してはもちろん、世に散らばっているこの言葉に触れて、共鳴したり、反発したり、吸収したりしながら、自分のアイデンティティのようなものを固めていきます。
実はそれがうまく出来ないと、自信がなくなったり、固定観念が芽生えたり、ひどい場合には逆に「デザインってのはねー」なんて語りが先行しちゃったり。
おっさんからこんな事言われたら厄介でしょう、そこの若人たちよ。
そしてこれを老害と認定するんでしょ?オソロシイ!
まあそんな感じでデザインという言葉自体が、色んな形でデザイナーにとってのコンプレックスになる場合がある。そう、何を隠そうわたしのことです。
わたしなんて全く無名ですし、華々しい実績があるわけでもなし、多種多様な製品を手掛けたわけではないので、そもそもデザインを語るなんてことはしないようにしてきました。し、もちろん今もそんなつもりはないです。
ただ、やっぱり自分にも今に至る人生というか、時間の流れがあったんだなぁと思うので(寄る年波ですかっ!)、これまで体験したこと、それに対する思いや考えてきた事は残しておいたほうがいいと思って、半ば自分の為に書いておくことにしました。
未来のわたしが読むための雑記だと、ご留意いただけると幸いです!!
なので、そんなわたしを天上からご覧いただく感じで、もちろんご覧頂かない感じでもOKですし、ここまで読んで、投げスッキしてお帰り頂いても大丈夫です!
とりあえず変なノリで序文が長くなった上に、以下は文体も変わってしまったんですが、気になる方はレッツゴーです!(なんか古っ)
デザインに出会ったわたし
わたしは子どもの頃からものを作るのが大変好きだったが、中学生になったあたりで「デザイン」という言葉に出会って、それはより顕著になった。
かっこいいものを作ることを大人はみんなデザインと呼んでいて、
「それってなんか、、それ自体がかっこいいやん!!」
などと憧れ、他人の意見にも振り回されたが、結局大学に行く頃にはデザインを学べるところを選んだ。
「デザインされた」と言われるものは、紙であれ立体物であれ何でも見てまわった。
それこそ、タバコを吸いもしないのにアッシュトレイ(灰皿とは呼ばない)を買ったり、計算なんてしないのにカリキュレーター(電卓とは呼ばない)を買ったり、勢いあまってオイルがふわふわ浮き沈みするランプ(めちゃめちゃ流行った)も買ったりした。
学生時代なんて、まだなんも分かってないような、分かった顔してるのがバレてることをバレてないと思っているような時である。
ひたすらに、自分の考えるかっこよさをただスケッチブックに溢れ出させる日々だった。
当時はというと、既にAdobe(アドビ)社のIllustratorやPhotoshopというデザインソフトが普及し、誰でも簡単にデザインというものができる時代だと言われていた。
それらのおかげでそれに触れる人口は確実に増えたし、成果物(計画されてできた物)と呼ばれるものは、圧倒的に世の中に溢れた。
ただ、そんな時代であったから、いわゆる基礎からデザインを学び、現場を経験してきたプロの中には、そういう出生の人たちを「デザイナー(仮)」「即席デザイナー」などと揶揄する人が少なからずいた。
「デザインってのはそういう事じゃない」
かくいうわたしも学生当時は、親のお金で専門の大学院まで進ませてもらって、時間も費やし、あこがれのデザイナーを目指していただけに、ソフトの恩恵で肩書きを名乗っている人がいると聞かされる(そういう伝達の仕方にそもそも悪意があるが)と、少々思うところはあった。
「もう名乗ったもん勝ちみたいなとこあるしな」
当時の友人の一言は今でも頭に焼き付いている。
学生の終わり頃か「デザイン家電」という言葉が登場し、一世を風靡した。
この言葉はデザインを体系的に学んでいる人からすれば、かなり違和感があったはずである。
諸先輩方の中には「デザイナーズマンション」の時にすでに諦めた人もいたという。
なにを諦めたか。
「デザイン」という言葉の本質的な意味の浸透と、その認識をみんなと共有することである。
多くの人は機能や操作性よりも、その形や色の美しさ、いわゆる見た目こそをデザインととらえて夢中になっていた。
デザイナーズマンションにしてもデザイン家電にしても、その言葉は、単純に見た目や雰囲気を伝えるため。
「おしゃれ」をお払い箱にして、代わりに「デザイン」をすえたのは明白だった。
より印象良く、ユーザーの購買意欲を掻き立てるにはどうしたらいいか。
そういう意図のもと、売上のために考えられた戦略的ワードである。
現に、当時は見た目を重視するあまり、本来の機能、品質、安全性、操作性などさまざまな部分がおろそかになった製品が増え、それが問題として新聞や雑誌なんかに取り上げられた事もあった。
とはいうものの、誤解であれ不本意であれ、デザインという言葉がより一層、世間に浸透したことは業界にとっても好機であったとも思う。
なぜなら、その時流はそれを扱う卓越した能力を持った「デザイナー」という人間がいることを、以前にも増して世間に知らしめることになったからである。
自分が目指していたから余計にそう思ったのかもしれないが、当時は本当に華々しく一線で活躍するデザイナーにスポットが当たっていて、メディアへの露出も一気に増えたような印象があった。
そして、諸先輩方はその影響力をもって、その状況を逆手に「デザインの本質的な意味」をきっちりと後世に伝えようと、言葉を尽くして語ってくれた。
「デザインってのは、こういうことを言うんだよ」
わたしはそれを聞くたび、読むたびわくわくしたのを覚えている。
「デザインってのはそういう事じゃない」しか言わない、あの時の何者かとは明らかに違う言葉。
これがもももろう少年がかっこいいと思ったものの正体だったのだ。
ところが、大衆の認識はというとそこまで変わらずで、やはり「デザインってのは格好の良さでしょ?」という解釈は払拭できなかった。
デザインという言葉の中には、それ(意匠性という)も含まれている。
人は誰しも簡潔に考えたがる。
二言三言で説明できるわけもなく、また関心がなければ多くの情報は耳まで届かず、わたしは確かにこれは難しい問題だと思った。
つづく