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絵を描くこと
今日は明かりの話はお休みして、違うことを書いてみます。
私はデザインの仕事をしているので、周りからは「絵が描ける人」と思われております。デザイン関係=絵がうまいという事は当たり前のことのようで。
そんなこともあって、甥っ子や姪っ子にも漫画をせがまれることがよくあるんですが、それ以外でも絵を描く能力というのはなかなか便利で多方面でかなり重宝します。
また、海辺なんかにスケッチブックを持ってふらっと絵を描きにいったりすることもあり、それ自体なんとなく生活に溶け込んだような行為でもあります。
そんな話をすると、決まって「自分も絵が描けたらなぁー」と言われるのです。
そして「色々好きなもん描いてみたらどう?」と返すと「下手やから無理」となる。
こう返してくる人が結構いるので、その都度、少し寂しい気持ちになってしまいます。
もっとみんなに絵を描いて、その楽しさに触れて欲しい!
と、そんなことを思って考察してみました。
下手だから描かない
どうやら皆さん上手じゃないと絵を描かないご様子なのです。
本人たちに聞くと、下手だから。
下手だとなぜ描かないのかと聞くと、恥ずかしいから。
自分が描いた作品が下手なのが恥ずかしい。
「私が描いたら犬か猫か分からんもんー」ということで、ここでいう上手とは本物みたいということのようです。
本物みたいに描く技術がない。構図や色使いなんかもってのほか。
評価としているポイントが「上手さ=本物みたい」なので、それを表現する技術を習得していない自分への評価はもちろん低いし、出来上がる作品はお粗末なものばかりでモチベーションが上がらない。
習いにいくってほどでもないけど、趣味は絵を描くことです。ってなんか憧れるらしい
「でも下手やから!」描かない。
自分でいうのはまだしも、誰かに下手くそって言われたら描きたくないし見せたくなくなるけど、始める前からそんなに卑下しなくても。
極端なパターンですと、自分はしてはいけない行為なんだって捉える人もいました。
そんなに追い詰めたのは誰なんだ、本当に。
ルソーさんのことでも知って元気出してくださいよ。
なぜ下手だと恥ずかしいのか
この絵を描くという行為は歌なんかと一緒で、人間の根源的な活動の一つなんです。
「だから、描きたきゃ描きゃええやん」
っていうのは、上に当てはまる人には本当に乱暴な言い方らしく「だから下手やから無理やねん!!」って不満そうにされる。
でも、下手な子どもの絵って素敵ですよね。むしろ下手なことなんて気になんない。
子どもなんだから当たり前じゃんって思ってますか?
子ども補正かかってますか?
いや、みなさんそもそも下手なことよりも圧倒的なエネルギーの方に目がいきませんか?
なんてのびのびと自由に描いて魅力的なんだって。
あれは絵を描くという行為が、そうしたいという衝動からくるものだからです。
自分の手が動いた後に線が残る、色が走る。
その時、幼児さまは自分の目に留まった色、道具、それを使うと現れる現象が心地よくて描いていらっしゃる。
あれこそが根源的な絵を描く行為だな、と私なんかは思います。
ところが、そんな子どもたちも5歳を迎えるあたりから社会性が身につき出し、衝動で描くのをやめます。
消したり書き直したり、ひどい時は破いたりして、何度も理想の絵を目指す。
自分が納得できる絵を描くために躍起になる。
そうなんです。
理由は上手く描けていないから。
普通に生きていると、どこかのタイミングで絵を描くことの評価の基準が「上手い事」になっている。これを教育の問題と捉えるか、環境の問題と捉えるか。
それ自体が悪いことではないですが、同時に衝動や感情が絵を描く理由から消えていってしまう。
みなさん、子どもが書いた絵を「上手、上手」とか「本物みたい」と褒めていませんか?実はこれが絵は上手な人が描くものだ、という価値観を持たせてしまう原因の一つなんです。
そしてこれはその子が育って環境が変わっても、絵を描く行為においては、社会の風潮として必ずついてまわる。
どこかのタイミングで、絵を描くことにはそれ以外の価値があるんだって気付けないと、刷り込まれたものはなかなか排除できません。
そして、下手だと恥ずかしいんだという思いが芽生えるのです。
絵を描く行為にあるニ種類の価値
これを分けて考えられると、今まで描けないとおっしゃってた人も描くきっかけを掴めると思います。
①伝達するため(評価軸が他者にある)
②生み出す行為を楽しむため(評価軸が自分にある)
まず①の伝達するためです。
冒頭で話したように、絵を描くというのは「上手=本物みたい」というのが価値であって、自分にはその能力がないので描かないという人がいる。
しかし、私としては上手な絵に最も価値が見出されるのは、コミュニケーションを円滑に進める場合だと考えています。
私は、言葉で説明しづらい場面でよく絵を描きます。
内容の難しさに関係なく、その方が伝わることが多いからです。
なので簡単なやり取りでも使います。
絵が上手ければ上手いほど相手に伝わるし、理解してもらえる。
私は、この絵が上手いというのは文章が上手いとか話が上手いと同じ意味だと考えています。なので、説明力やコミュニケーション力の延長という感じで受け手が存在する。その人が見た途端「?」となる絵は成立しないわけです。
評価軸は他者にあるのです。つまり、他者に評価されるための能力としての絵。
例えば、めちゃくちゃ写実的で本物と見紛うような花や景色の絵があると、皆さんはもちろん「すっごい上手ー」と褒めますよね。
絵の中の状況は読み解く部分としても、花の種類、空の色、人物のポーズ。
我々がいつかどこかで見たもの、イメージしたことがあるもの。
それを写真じゃなく、絵に描き起こせるなんて。
さらに考えてみてください。
光の挿し方、布の質感、その人の表情、その時代に起った出来事。
説明せずともそこに描かれているものの事がありありと理解できる。
その時、あなたは情報が伝わってくることに感動し、それを可能にしている書き手の能力を評価しているはずです。
これが一つ目の絵を描く行為の構造。そして価値です。
次は②の生み出す行為を楽しむというやつ。
こちらはもうお分かりと思いますが、子どもがはじめに描く絵の描き方です。
「鉛筆の芯の素材なんか分からんけど、紙に当てたら線かけるやん!」
「太さも濃さも自由やん!」という現象が楽しくて、幼児さまの心をワシ掴みでございます。
上手いとか下手とかではなくて、衝動や感動がそこにある。
色なんか使い出したらもう万能感がすごい。
だって世界で唯一、自分ひとりで生み出したものがその目の前に現れるんですから。
絵を描いた瞬間から、あなたはあなたの世界の創造主になれる。
いいものはいい、いまいちならいまいち!
誰が何を言ったって関係ない。なんてったって評価軸が自分にある。
この感情で筆をとると、今、目の前にあるリンゴを寸分違わず映し取るように描くことには価値がなくなってしまいます。
もっと自由でいいじゃないという印象派の爆誕です。
これが二つ目の絵を描く行為の構造で、価値。
ねえ。ルソーさん、なんか言ってやってくださいよ。
アートを見れない人の苦手意識ってここにあると思います。
頭の中にある情報や経験と、目の前にある情報が脳内で合致しない。
合致しないということは、情報が伝わってこない。だから、これを生み出した能力の価値を計れない。
①と②で評価の基準が違いますよね。
アートってものは価値を計ったり評価したりせず、ただその前で思考すればいいんだよって、見方をアドバイスされたって分からない。
絵の価値は上手いことである、という固定観念がそれをさせてくれないのです。
どちらが正しい評価というわけでもない
私として一番なくなったらいいなと思うことは
「上手じゃないから絵は描かない」
という状態。下手だから描かないなんて、めちゃくちゃ勿体無い。
好きなのにやらないなんて!ルソーさんみたいに仕事辞めてまで(しかも税関職員)絵を描けとは言いませんが、始めるのに充分な理由ですよ!
もちろん能力として捉えるか、行為として捉えるかはあります。
改めて自分の絵を描きたいという気持ちに向き合ってみるといいかなと思います。
能力として欲しい人は語学と同じ方法で習得するだけ。
行為としてしたい人は散歩と同じ方法で楽しんでするだけ。
散歩、下っ手!ってことはないでしょうよ。
好きか嫌いかでしょうよ。
好きな人は是非、描いてみてください。
そして、周りにそんな人がいて苦悩してたら、この駄文を自分の言葉みたいにドヤ顔で放ってください。
そして最後に、自分で乱暴と言っておきながらなんですが、ここまで読んでくれた皆さんだからこそ言わせてください。
描きたいなら描きゃいいじゃん!
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