出地元、実習体験記
父親が東京出身ということもあり、小さいころから、「こんなことろにとどまっていないで東京へ出るべきだ」とよく言われていた。すべてのものは東京に集まるし、親元を離れて自立して生活力をつけてほしい、という2つの意味がこめらていたようだ。当然のように、兄弟全員地元を離れ、今も東京・神奈川で暮らしている。
よく地元を離れ大学へ進学する、就職するという折りに、“地元に残れば車を買ってやる”という謎の駆け引きがあるようだが、東京に行ってしまえば車なんて不要だし、そうやって子どもの選択肢を狭めるのはどうなの・・・?と子どもながらに思っていた。車を買ってくれるお金で敷金・礼金を出してもらえたほうがよい。そもそも、みんなそんなに車が欲しいものなのか。私は、車に興味もなければ免許すら持っていない。
さて、短大に進学してからは毎日が楽しかった。みなとみらいを見ては、テレビで見たところだ!と興奮し、渋谷が近い!と感嘆した。入学早々通り魔に体当たりされて腕の骨にひびが入るなど恐ろしい体験もしたが、友達には恵まれた。当時はそれなりに人間関係に悩んだりもしたけれど、今も仲良くしている子もいる。
私の通っていた保育科では幼稚園教諭2種免許と保育士資格を卒業と同時に取得できた。その分、2年間で取得しなければならない単位が多く、保育実習・教育実習をこなしながらの授業がぎっちり組まれていた。2年生の時の夏休みは実習でつぶれ、10日間しかなかった。
公立保育園10日間、私立保育園15日、私立保育施設(養護施設など)15日、幼稚園15日だったような・・。実習では、当然のように先生に嫌みを言われる。「あの時こうしてほしかったんだよね~」(その時に言えよ)「あなただけ服装が変よ?」(は??)と言われたり、他校の実習生が目の前で先生からぼろくそに言われているのも目の当たりにした。先生たちもそうやって学生時代を過ごしてきたから実習生はいじめてもよいという認識があり、ストレスのはけ口にされていた。今でいえばモラハラに近い。このとき、幼児教育者は信用できないと痛烈に感じた。もちろん中には尊敬できる先生もいたが、記憶に強く残るのは嫌な先生の方だ。
1日の保育の流れ、その日の自分の目標、子どもの動き、保育者の働きかけ、実習生の気づきを毎日“実習日誌”とよばれるレポートにまとめる。1日分みっちり書いて、A3用紙4枚分になる。さらに1日のまとめをA4用紙1枚にまとめる。毎日書いて園の先生にも見てもらう。忘れるなんて決して許されない。さらには責任実習というものがあり、1日担任として過ごす。そのための立案書を書いて、チェックしてもらい、当日は園長、主任、担当教諭、フリーの先生、時間がある先生・・・大所帯で見学される。やりづらい。その日の夕方には職員全員で反省会を開いてもらい、色々指摘される。事前に書類を提出しているのだから、その時点で教えてほしかった、、ということも指摘され「こういう失敗も先生に経験してほしかったんだよね」と言われ、「は?」と思った。今でも「は?」と思う。
私立の保育施設実習では15日間泊まり込みで児童養護施設へ行った。児童養護施設では、三食出るし、洗濯や身の回りのことを実習時間中に片づけられるのがありがたかった。さらに、早番・遅番の2部制で早番のときは休憩時間で昼寝ができた。施設では事情があり家族と一緒に暮らせない子どもたちが暮らしていて、私は男の子の幼児の部屋を担当することになった。最初はまともに話してくれなかったし、顔を叩かれたりもしたけれど段々打ち解けてくれて、最終日には「先生帰らないで」と言ってくれた。「また来るからね」と約束してから、一度もいけていない。
公立の保育実習では毎日お弁当を持参していたが、3時の休憩時間になるとかならず重た目のおやつ(おだんごとか、ロールケーキ)をいただけることに気づき、お弁当の量を減らした。これがまっさきに思いだされる。そしえやはり、公立の先生たちは優しかった。公務員だからこその余裕なのかなぁとも学生ながら思った。
実習は本当に大変だった。実習中は必ず風邪をひいたし、一日は寝込んで休んでいた。ストレスはハンパではない。あの子元気かな…と思うことはあるけれど、実習というものにはもう2度と行きたくない。
短大のレベルはそもそも低いので、単位を落とすことはなかったし、先生たちも単位を落とさせないようにかなり評定は甘かったと思う。
無事に卒業と同時に幼稚園教諭2種免許と保育士資格、社会福祉主事任用資格(←何に使えるかいまいちわかっていない)を取得できた。