馬が合わない、家族ってなんなんだろうか。
人によって適切な距離感は必要だ
数年前に父親と一緒に住むのは無理だと思って同居をやめた。
私は父親の言動が全て変なことをしているようにしか思えなくて見ているのが不愉快だ。こんな人は生きてきて他にみたことがない。たぶん自分と生活のスタイルが違うんだと、そう思っている。
小学校の途中から、大学になるまで生活を共にしてこなかったからだろう。最近になって訳あって同居することになったがやっぱり難しい。なんかことごとく人の嫌なことをしてくるような感じ。寛容になるにはどうしたらいいものやら。
同居をやめてからの方が、父親との距離感はちょうどよかった。
月一程度に会って話すくらいなら全然問題ない。
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ここまで書いてたんだな、12月になって久しぶりにnoteを開いたら、8月16日に書いていたこの記事が出てきた。
父親に対する自分の考え方はさほど大きく変わっていない。
でも世の中で何年もやってこれたんだからこんな人、ざらにいるのかもしれないなと思い始めた今日この頃
価値観の合わない人に自分の価値観に寄ってきてほしいなんて願望はかないっこない。大体まず、「こうであれ」なんてことは思ってもいいがそこに熱量を注ぐほど思ってはいけない。人は人、私は私。
誰も私のことなんて一番には考えてくれないのだから、そんなもんだくらいに思っていた方が人付き合いは気楽である。
ふと考える、家族って、人生って何なんだろうなって。
無条件に私という存在を支援して、養ってくれた人たち。でもそこになんの見返りも求めていなかったのかというとそれは嘘になる気がする。いつか感謝されて、大きくなって理想的な人になってくれることを期待して育てているんではないだろうか、、、
まあ私は少し客観的にみてそこのあたりは差し支えないほどには社会的なレールに合った生き方をしてきていると思う。そこに全く苦しみを感じないから。
そういった社会の常識とか、正しいとされる人生の道に違和感を感じて苦しむ人も多くいるんだということを最近感じるようになった。
もしかしたら、先人の人たちにも違和感を感じて苦しんだからこそ、現代の多様な世界が存在するのかもしれない。
社会に違和感を何も感じていないのではなく、感じたうえで、現状が心地いいからそこに何ら変化を与えようとしないというのが私の生き方を言語化した状況なのだろうなと思った。
それなのになかなか父親という存在だけは関わりずらい。これはもう自分の寛容な感覚、そういう変な存在だという捉え方ができるかどうかなのかもしれないなと最近思った。
私の考え方、価値観は未熟だし、たいしたことはない。いろんな人がいて、いろんなものの捉え方があるんだよなということにもう少し納得できるようになれば、父親とのかかわり方もうまくいくのかもしれない。
ヒトって変ないきものだな
いつ死ぬかわからないのにずっと生きているつもりで話すんだから。
とか思いながら結局そういう思考をする私はなんなんだろうな。