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みえこ
緩やかな坂道を上に向かって歩く。さほどたいした勾配ではないと思って油断をしていると、これが意外と堪えたりする。わずかな距離であればどうということのない坂道でも、それが長く続くとなると、途中でへたばってしまう。わずかな勾配であっても重力に逆らって進んでいるのだなと思う。これがさらに急な坂道であれば、もはや最初から先を見越して身構えて歩く。あの辺りで一度足を止めて休むことにしようなどと。歩きはじめには坂の上に目を向けて見るものだが、そのうち前へ進むことだけにとらわれてしまうせいか、気がつけば足下ばかりを見て歩いている。水気も無いのにところどころ雑草の子供が芽を見せているごつごつした地面ばかりに気をとられながら、とにかく一歩ずつ足がちゃんと上がっているか、前に進んでいるか。息も絶え絶えになりながら、その呼吸をゆっくり整えながら、歩くことにばかり集中していると坂の上に何があるかなどということまでには思いが至らないことになる。
なんとか坂の上までたどり着くことができれば、そこではじめていま来た道を振り返る。ああ、こんなに登って来たのだな。結構がんばることができたな。最初に立っていた坂の下を眺めて感慨に耽ることができるのは、急勾配を上がったときだけだ。なだらかな坂だと、いま居るところとさほど高さは変わらないように思えるから、ただただ少しだけ息が弾む平坦な道を歩いた感じしかしない。それならいっそう、回り道でもして平坦な道をとった方がましだったかな、そうも思えるほどだ。勾配がほとんどないような道は、それこそ凡庸で、上に向かうなどという大それた考えもなく、平面を歩くだけ。しかしそれで目的地に到着することができるのなら、それにこしたことはない。同じ目的地を目指すのに、何を辛い目をすることがあろう。高みを目指した者にはそれなりの達成感と、幾ばくかの栄誉と財産が手に入るのだとしても、結局は標高を除けば同じ辺りにたどり着くのだから、それでいいではないか。そう思うのがごく普通の凡人の生き方なのではないだろうか。
坂道はどことなく人の道に似ている。いずれ歩くほかはないのだが、凡庸に平地を行くのか、あるいは少しでも高みを目指すのか。また、平地を行くならば現地点と変わらぬ高さにある行き先が少し先までは見渡せるが、高みを目指す場合には坂の上に何があるかはほとんどの場合そこにたどり着くまでは見えない。高みに着いたら着いたで、さらに上へと連なる坂道を発見して疲れ果ててしまう場合だってあり得る。そうして挫折してしまうことなど、歩きはじめた時には想像もつかなかったかもしれない。前もって坂の上を見晴らすことができたなら、違った道を進むことだってできたかもしれないのにと、途中で後悔したところで、すり減らして来た足裏のゴム底はもう元には戻せないのだ。
ほんの緩やかな坂道を上がったところに公園があった。ほんの穏やかなといったのは曖昧な傾斜を語ったのではなく、実際に子供でも気軽に歩いて行ける場所でなければ公園など役に立たない。宅地そのものが山裾の畑をつぶしてできた造成地なのであるが、ほんとうに山裾のはじまる辺りなので、宅地そのものがさほどまだ迫り上がっていないのだ。宅地の下端である広い通りから坂道を上がりはじめて三百米ほど先にある公園は、まだ宅地の入り口に近いといってもいいほどの場所であり、でき上がって間もない住宅地を行き来する住人たちの通り道にもなっていた。つまり、乳母車を押してやって来る若い母親や、犬を散歩する老若男女、ブランコ遊びが好きな子供たち以外に、町の一画に誘致されたビルに向かうビジネスマンだのOLだの、同じく新設された専門学校に通う学生だのも公園の周囲を通り過ぎ、一休みしていくのだ。そういう意味では、この公園は子供だけのものではなく、大人にとっても大いに役に立っているのだと、土木設計を行った人間が満足の笑みを浮かべていることだろう。こんなに広い一画をどうして公開地になどしなければならないのか。家の一つでも建てれば金銭に変わるのに。そう言って反対した者を説得した甲斐があるというものだ。むかし住んでいた彼の家の近くには公園などなく、その代わりにぽっかりと開いた空き地で情操を育んだ設計家にとって、町には空き地が必要なのだ。空き地といわず、遊具が設けられた公園が人間を育むのだ。高度成長期にあった時代には、そういう考えを押し進める人間はまだ多くはなかった。子供時代の思い出をビジネスに転化させるような大人はそうたくさんはいなかった時代だった。
大人には大人の世界があるように、子供には子供の世界がある。だがほとんどの場合、大人になってしまうと、子供の頃の記憶など、これっぽっちも覚えていないものだ。しかし、稀に記憶の底に染み付いている何かが、ひょんなことで浮かび上がってくることもある。それは過去の記憶かもしれないし、もしかしたら未来につながる記憶かもしれない。人間の脳には深淵の宇宙と同じように、まだまだ道の領域が残されていて、前人未到の領域に踏み込めた人間はほんの一握りしかいない。
この公園の入り口にしつらえられた低いブロック塀の傍らに、小さな女の子がふたりでしゃがみこんで遊んでいる。その頃流行っていたおはじきをしているのでも、地面に線を引いて五目並べをしているのでもない。ふたり並んで通りを行く大人たちを眺めているのだ。行き来する大人たちをこっそり眺めては何かを囁き合っている。
「あの人は?」
「だめ」
「じゃぁ、あの黒い服の人は?」
「だめよ」
「こっちから来る赤い女の人は?」
「……だめ……じゃない」
「あ、ほらほら、そのおじさんは?」
「だめー」
「みえちゃん、どうしてだめだって言うの?」
「知らない。だめだからだめなの」
「ふぅん。だめだからだめなんだ」
「うん、だめな人は、やっぱりだめなの」
同じ幼稚園に通っているふたりは、同じ住宅地に住む幼なじみだ。本当に小さい頃からいつも一緒に遊んでいる。「姉妹でしょ?」ってよく言われるのは、みえこの方がしっかりしていてお姉さんに見えるから。真理(まこと)は、頭はいいが線の細い感じの子供で、みえこと同い年なのにまるで妹のように振舞っていた。みえこのそばにいることが楽しいし、みえこの傍にいると安心できるからだ。
幼稚園へはそれぞれの親が送り迎えしていたのだが、年中組になると、帰りは子供ふたりだけで手をつないで帰ってくるのが慣習となった。それで大丈夫だと親も認めている。幼稚園から家まで子供の足でもほんの十分ほど。表通りはそれなりに車も多いが、歩道を歩いていれば問題ないし、裏通りから帰れば、それほど交通量もなく安全だ。たいていは人通りのある表通りを歩いて帰るのだが、その日は違った。
「まぁちゃん、今日はあっちから帰ろ」
「うん、わかった」
普段、まぁちゃんと呼ばれている真理は、みえこが言うことに一度も逆らったことがない。右に行くとみえこが言えば右に行くし、左と言えば左に行く。そうすることがいちばん問題の起こらない方法だからだ。裏通りをふたりで手をつないで歩いていると、大通りの方向から大きな音が聞こえてきた。
キィィィ! 急ブレーキ。ガシャン!
衝撃音、人の怒号。真理は何の音なのだろうと言ったが、聞こえたのか聞こえなかったのかみえこは知らん顔して歩いていく。
「気にしない、気にしない」
みえこがそう言うものだから、真理も真似をして言った。
「気にしない、気にしない」
後から知ったのだが、表通りを走っていた車が、ガードレールに激突して歩道に乗り上げたそうだ。居眠り運転をしていた運転手は即死、歩道を歩いていた園児とその親が重軽傷を負うという事故が起きたのだ。みえこが違う道から帰ろうと言ったおかげで、ふたりは事故に遭わなくてすんだということになる。
こんな事故などそう度々あるわけではないが、小さな出来事はほかにもあった。待ち伏せしていた悪ガキや獰猛な犬との遭遇を回避できたのではないかと思えることが何度かあった。それは選ばなかった公園脇の裏道を表通りから遠目に見上げてわかったことだが、たいていはそれらの災難に出くわしてしまった別の子供が泣いて逃げて来るのだった。
みえこは不思議な女の子だ。子供のくせに、しゃんとしている。真理はときどきメソメソ泣くような子だったが、みえこが泣いているのを見たことがない。黙って大きな瞳を空に向けているだけ、もしかしたらそれが泣いている姿だったのかもしれない。反対に大きく笑う顔も見たことがない。なにか嬉しいことがあっても、小さく微笑むだけなのだ。
小学一年の夏、みえこの母親が病気で急逝した。真理は両親に連れられて通夜に訪れた。奥の和室に敷かれた布団にみえこの母親は横たえられ、顔は白い布で覆い隠されていた。その脇で父親が悲しみを噛み殺して座っていた。みえこはというと、最初は父親の隣に座って呆然とした表情で母の骸を眺めているようだったが、いつの間にか姿が見えないと思うと、真理の隣に来ていて、袖を引っ張るのだった。真理は隣の部屋まで連れていかれ、壁際の低いチェストの上に置いてある、赤い魚が入った水槽のところに誘われた。
「まぁちゃんほら、この金魚、三匹いるでしょ? このお魚たち、家族なの。大きなお魚がお母さんなんだけど、明日、いなくなるの」
「いなくなるって?」
「死んじゃうの。ママと同じように」
「だって、元気そうに泳いでるよ」
「うん、でも明日死ぬの。このお魚のママも病気なの」
水槽を泳いでいる赤い魚をよく見ると、尾ひれのところが少し溶けているように見えた。
「病気なの……? 治せないの?」
「もう、遅いの……でもね、こっちの二匹にはお薬が効いたの」
そして翌週、学校に出て来たみえこは、大きな金魚は白くなって水面に浮いていたと言った。おばさんの顔に乗せられた白い布と、白くなったという金魚が、ひとつのイメージに重なって、真理の脳裏に染み込んだ。
真理とみえこは、それからもしばらくは仲良く遊んでいたが、小学校を卒業して中学に入るとお互いに別々の友達ができ、とりたてて理由もないまま自然に疎遠になっていった。
◆ 真(ま) 理(こと) ◆
月曜日はいつも、どんよりした気持ちではじまる。月曜日は嫌いだ。土日、仕事がお休みの間は、朝から晩まですべてが自分だけのものになる。だからといって何か趣味とかスポーツとかがしたいわけではなく、たいていは何もしないでごろごろしているだけで一日が終わってしまう。土曜日を無為に過ごしてしまったと後悔して、翌日曜日には何か特別なことをしようなんて思わない。結局またしても一日中ベッドの上で横たわってテレビ画面を眺めているだけで夜を迎えてしまう。そうして明日からまたはじまる一週間のことを考えると、また重たい気持ちになってしまうのが常だった。
だがいまは違う。あのどんよりとした月曜日はもう来ない。これからはずっと自分の時間だ。あの、何のためにしているのか、何を守るためのものなのか、結局苦痛以外の何も得ることができなかった会社勤めを辞めてしまったからだ。
貯えは少しばかりはある。だが、この先長く暮らしていけるほどの金額ではない。都会では家賃を払っているだけですぐになくなってしまう。だからアパートを引き払って田舎に帰ることにした。田舎といっても両親は早くに離婚しており、ひとりで真理を育ててくれた母は、真理が二十五歳のときに他界してしまったので、古びた小さな一戸建てが残されているだけだ。長いこと誰も住んでいなかったので、随分傷んでいることだろうが、住むには困らないだろう。とりあえず住んでみて、それから少しずつ手直ししていけばなんとかなるはずだ。
駅前の不動産屋にいままで住んでいたアパートの鍵を返し、その足で電車を乗り継いで実家に向かった。ほんの四時間ばかりで懐かしい駅にたどり着く。もともとは田畑ばかりだった土地に電鉄系のデベロッパーが新たに造成して生まれた新興住宅地だが、それから三十年以上も過ぎたいまではすっかり古びた田舎町になっていた。駅前のコンビニで食料を買い込んで、くたびれた看板を掲げた中華料理店やひと気のない喫茶店が並ぶ駅前を抜けると、すぐに店はまばらになり、古くからあった民家や鉄工所が混在する町並みに変わる。子供の頃にはなかった大きなバイパス道路をわたって、さらに十分ほど歩いた先の丘陵地帯の入口あたりの造成地に実家はあった。子供時分には広い住宅地だと思っていたが、大人になってみると随分と小ぢんまりとした町並みの中で、いまは古くなってしまった、よく似た姿で立ち並ぶ建売住宅が、真理を懐かしんで迎えてくれた。
翌日、アパートから送り出してきた僅かな荷物が到着し、真理はのろのろと荷解きをした。二、三日は家にこもったきりで、毎日インスタントラーメンばかり食べて暮らした。
家は母が死んでから十年近くも住み手がいないままだった割にはほとんど傷んでいず、当面は修理や補修をしなくても大丈夫なようだとわかってほっとした。真理は押入れから掃除道具を引っ張り出して床や壁の埃を払い、母が残した家具や置物を拭いたり磨いたりすることで最初の二日が過ぎていった。三日目には物置で錆び付いていたママチャリを磨き、油を注して今後の足として使えるようにした。こうして三日がかりで住処を整えるうちに、しばらくここで暮らしていくのだという実感がじんわりとわいてくる。同時に、それからあとはどうしたものかという不安感も滲んできた。この町には親戚もないし、実の父親は母の葬儀以来連絡が取れないままだ。兄弟もなく、親戚とは連絡を取りあったこともない。まぁいいか、そんなことは。とにかくいまあるお金でどのくらいやっていけるのかってことと、何かアルバイトでも探すしかないということ。そんなことをぼんやりと考えながらまた三日くらいを何もせずに家の中で過ごした。ぼんやりとテレビを眺めては、インスタントラーメンをすすって生きていた。
翌週になって、ようやく真理は外に出る気になった。食料が尽きたからだ。自転車で十分ほど走ったところにあるスーパーで、またインスタント食品を買い、午後になってからは昔よく遊んだ公園まで散歩してみた。
真理が高校を出てこの町を離れてからもう十二年ほどが経つ。あんなに広かった通りもいまではすっかり小さな通りに印象が変わってしまっている。だが、よく見るとアスファルトの下に隠れている路傍のコンクリートのひび割れや、道沿いに並ぶ古びた建売住宅の壁に浮かぶ染みなどは昔からあったような気がして、真理の胸の底になにやら暖かいものがぽっと差した。緩やかな登り道を数分歩くと公園の入口。いまでは子供たちもいなくなってしまったのか、公園を囲むブロックは伸び放題になった草で隠れている。きぃきぃと、ささやかな金属音がする。ブランコだ。錆び付いた遊具が無人のまま風に揺れて真理を呼んでいる。
公園の入口から見ると、二対の鎖は昔と同じ場所にふたつ並んでぶら下がっていた。無人のまま揺れているのだと思ったが、誰かが座板に座って力なく揺れているのだった。懐かしい感じ。近づいていくまでもなく、真理にはそれが何者であるかががすぐにわかった。
「みえこ?」
小さく揺れていた女は、いきなり名前を呼ばれることをあらかじめ知っていたかのように、揺れを止めることも驚くこともなく静かに顔を上げた。昔のおかっぱ頭は長い黒髪に変わっていたが、世の中を見切ったような瞳の鋭さは昔のままであった。
「おお」
不機嫌に返事をしただけで、みえこは真理を見つめたまま口を閉じた。
「みえこも帰って来てたんだ。元気にしてたの? みんな元気?」
みんなといったのは言葉の綾で、実際には真理が知っているみえこの家族は、父親だけだった。真理は黙っているみえこの隣で揺れている空の遊具に腰を下ろして、ぷーらぷらと揺らすともなく揺らした。ちっとも変わっていないなぁ、みえこも、この町も。みえこの出現によって、急に救われたような気がしてふふふと笑ってしまう。それに同調するように、みえこもへへへと笑った。高校の卒業式が終わった日に顔を合わせたのが最後だから、実に十七年ぶり。そういうのってなんとなく照れくさいような。懐かしいような。でも小さいときに育んだつながりというものは、案外深いものがあるのだろう。すぐにあの頃と同じような空気が流れはじめる。
みえことは別々の高校に進んでからはほとんど会うこともなくなってしまい、家が近所だからたまにすれ違って立ち話をするだけの間柄になってしまっていた。高校を卒業したあと、真理と同じように東京の大学に進んだところまでは聞いていたが、保険会社に就職したという話は、このとき初めて耳にした。
「で、辞めてしまったの?」
みえこは小さく頷いて息だけで笑った。
きい、きぃい。
遊具の金具がきしる。ほんとうなら耳障りの金属音が、いまは十年間の隙間を埋める音になっていて、私たちは交代で、きい、きぃいと、小さな音を鳴らした。これまでどこで何をしていたのか、みえこの物語がポツリポツリと語られはじめた。
◆ みえこ ◆
短大を出たあと、みえこは保険会社に就職した。他の女子大生と同じようにスーツと制服を交互に着こなし、いずれは誰かと普通に結婚するものだと思っていたが、違った。一年間は先輩と共に得意先回りをし、二年目からは一人で担当を持たされ、いくつかの企業を回って新規顧客を探す仕事があてがわれた。団体保険契約をまとめて法人契約するという大きな仕事もあるが、みえこが担当したのは個人契約の仕事。担当企業を回って、企業に勤める個人に保険商品を説明して売り込むのだ。
生命保険プランは、個人プロフィールを入力すると自動的にいくつものプランが出力されるという便利なシステムがあるので、難しいことは何もない。だが、このデータをただ顧客に見せても、誰も生命保険というものに興味を持たない。特にまだ保険に加入していない若い人たちは、将来の不安など一切持ち合わせていないから、もしもに備えてなどと解説しても、毎月数万もの大きな出費を想像もできない。生命保険、とりわけ終身保険などというものは、矛盾に満ちた仕組みの産物だとみえこは思っていた。二十年も三十年も払い続けて、それが預貯金として手元に残るのかといえば、そういうものでもなく、戻ってくるのは年数の割には僅かな満了金だけだ。疾病特約に入っていれば、病気で入院した場合などにいくばくかの見舞金が支払われる。幸か不幸かこういう金を手にできた客は喜ぶものの、それまでに払った保険料と見合うのかといえば疑問だ。死亡保険は出るが、受取人は当然ながら死亡した本人ではなくその家族である。加入期間内に何も起きなければ幸いではあるが、僅かな満期保険金が残るだけだ。いったい何のために、誰のために保険に加入するのか、みえこ自身にもよくわからないのだった。
だが、病気になるとか、死んでしまうということが前もってわかっているのなら、保険に入っておくにこしたことはない。ただ死んでしまっても金にはならないが、保険にさえ入っていれば葬儀代はおろか、遺族への贈り物にすらなる大金が降りる。だからみえこは、相手を選んで、執拗に加入を勧めた。必ず損はさせない。その人の家族のために必要な加入だからだ。だが、「あなたはかならず保険加入期間内に亡くなるはずですから、入ったほうがいいですよ」なんて言えるわけがない。そんなことを言えば殴られるのがオチで、理解されるわけがない。それでも、みえこは懸命に説得した。もしもそうなったら、という仮定付きでの説明では、説得力は半減するのだが。
「田中さん、いまはまだ若くて健康だから想像できないでしょうけれども、二十年もすれば状況は変わりますよ。そのくらいの年齢で病気や事故で亡くなる人はたくさんいらっしゃいます」
「いやぁ、それが必ずそうなるのだったら入ろうかなぁと思うけどさ、そんなのわかんないじゃん。病気になんなければ、無駄金になるわけでしょ、保険って?」
だからさ、あなたの場合は無駄にはならないんですって、絶対に。こう言いたいところをぐっとこらえて、同じことを繰り返す。もしもですよ、もしも。
「岡田さんは、ガン保険に興味を持たれた方がいいですよ」
「なんで?」
「あの、ガンってわかってからでは加入できないんです。だから、いまのうちに入っておけば、ガン疾病がわかった時点で二百万円以上の罹病見舞金がもらえるんです」
「二百万かぁ。でもさ、俺の家系にはガンに罹った者はいないから、もらえそうにないな」
そんなことないって、いまや三人に一人はガンになるご時世だし、あなたの場合は間違いなくそのひとりなんですから! 言いたい気持ちを押さえて、また同じことを繰り返す。もしもですよ、もしも。
所帯を持って、だいたい三十歳を過ぎたあたりになって、給料も少しずつ増えて余裕ができると、人は家族のために保険加入を考えはじめる。だが、加入期間中に大病も死亡もしないとわかっているなら、保険は無駄な出費以外の何ものでもない。だからみえこはそういう顧客に対しては適当にあしらって、積極的に勧めない。何人もの顧客と出会う中で、ある人には熱心に保険勧誘し、別の人は適当にあしらう。その結果、顧客から営業本部の方に苦情が入るようになった。
「おたくの保険員だけどさ、なんか気持ち悪いよ。まるで私がすぐにでも死ぬかのような口ぶりで保険を勧めるんだから」
「もしも、もしも、なんていいながら、あなたは必ず病気になるって言わんがばかり。これって、強迫じゃないの? オタクの保険員さん、どうなってるの?」
「もしもーし。俺、保険加入の相談したら、あなたは入らなくても大丈夫だって拒絶されたんだけど、オタク、おかしな保険勧誘員雇ってるね」
度重なる苦情に、みえこは上司から指導を受け続けていたが、ついに閑職に配置替えされてしまった。
資料室は、古い業界資料を整理する部署だ。社内のどこにあるかよく知られていない場所で、陰では“北の果て”と呼ばれている。世の中はどんどん変化しているので、過去の資料など必要とされることはまずないのだが、顧客データや社の歴史とも言える研究資料等を捨て去る訳にもいかず、オフィスの端っこの倉庫部屋に資料として保管されている。これまでは定年間近な古井係長がひとりで管理してきたのだが、みえこはここで彼の補佐の仕事をすることになった。補佐とはいうが、古井一人だけでも勤務時間を持て余しているような仕事だ。何かする仕事がある日の方が少ない。
古井は、いかにも地味で覇気のないおじさんだ。だが、この、時代の尻拭いみたいな資料整理という仕事をこつこつと長年一人でこなしてきた人だ。資料室ができた当初は、それでも膨大な資料を整理してまとめあげていくという大変な仕事が鎮座していたのだ。古井とみえこのデスクは資料棚に囲まれるような形で向かい合わせに配置されている。みえこは、向かいに座っている古井の姿に意識を集中してみた。だが、古井の顔には別段変わった様子は見えない。何も見えないというのは、それほど悪いことではない。いまの姿とほとんど変わらないまま、平穏なまま生涯を終えるということを暗示している。古井のような人は案外たくさんいる。生まれてから死ぬまで、ほとんど何も悩まず、迷わず、与えられた生を淡々と、凡々と生きていく。大きなしあわせを求めない代わりに、飛びぬけた不幸にも巡り合わない。平凡な人生こそが難しいなどという人もいるが、そんなことはないとみえこは思う。野心どころか確たる意思も持たず、世の流れに流されて生きていくことをよしとさえできれば、それなりにしあわせな時間が淡々と流れていく。生きて、食べて、汗して、飲んで、眠って、ただ生きていくだけの人生。世の中の大半はこういうタイプの人なのだとみえこには思える。
ただ、平凡に生きている人でも、麻疹のようなものにかかってしまうことがある。他人の裕福な生活を見て、にわかにああなりたいと望みだす。人の幸せを自分の暮らしと比較して羨ましく思えてしまう。そうしてささやかな野心が芽生え、与えられた人生に抗おうとする。人生の流れに逆らおうとするからこそ、悩み、苦しみ、もがきながら結局達成できずに苦しむ人生を送る羽目に陥る。古井係長は違う。一年後に定年退職し、平均寿命である七十過ぎまで平凡に生き、そして死んでいくだろう。そこには何の苦悩も不満もなく、家族に囲まれて、ただ生きて死んでいくだけ。
「芦高くん、お昼は何をとる?」
古井係長は、ほとんどこの部屋を出ない。お昼だって弁当屋に出前を注文する。
「私はそうだな、天丼定食にしようと思うんだけど、君は今日は外にするのかい?」
のんびりした古井の生き方は嫌いじゃないが、毎日、四六時中一緒だと、辛気臭い。最初の頃は距離を置くようにしていたが、最近は古井の辛気臭さに慣れてしまって、まあ、弁当くらい付き合ってやろうかと思うようになっていた。
「じゃぁ、私は幕の内でお願いします」
「りょーうかーい」
弁当の発注は、古井にとってとても大切な日課のひとつなのだ。こういう人ばかりなら、世の中の争いごとも生まれないのかもしれないなと思う。
みえこには、古井の人生がわかる。他人の未来が見える。未来が見えるというと語弊が生じるが、その人の人生の結末がわかってしまうのだ。いまは元気一杯な若者が、三十年後には重い病気で苦しんで死んでゆく姿。裕福な会社経営者が陥る晩年の貧困生活。権力を手にしようともがいている人間の寂しい死に様。あっけなく交通事故でなくなってしまう幼気な子供の短い人生。そして平々凡々とまったく何事もなく平和に生きて死にゆくだけの人生。人の姿を見ていると、現在の姿に重なるように、その人の人生の結末が見えるのだ。具体的な映像が見えるわけでもないし、明確で具体的な近未来予測ができるわけではない。ここが困ったところなのだ。
みえこには明日が予知できるわけではない。明日が予知できるというのなら、明日起きる事件や事故を予測して未然に防いだり、来週当たる予定の万馬券を買って大儲けをしたりできるというものだが、そんなことはできない。単に、目の前にいる人物の、人生の結末が見えてしまうという抽象的なものだ。この能力はものごころついたときにはすでにあった。町ゆく人が将来しあわせな人生をまっとうするのか、不幸な人生を送るのか、そんなものをおぼろげながらに見てきた。だからみえこには、周りの人を”だめな人”と”だめじゃない人”に区別して接する癖があった。だめな人には、それとなく手助けをしようと考えるのだが、たいていは何を伝えても相手の耳に入らなかったり、仮に聞くだけは聞いてくれたとしても、みえこがアドバイスしたくらいでは信じてもらえず、結果、その人の人生が変わるものでもないのだった。だから、だめな結末を迎える人と一緒にいるのはきつい。その人に訪れる不幸せが自分に跳ね返ってくるように思えるからだ。そういう意味では、だめじゃない人と一緒にいる方が安心だし、気持ちが休まった。古井係長はそのどちらでもない部類の人で、みえこにとっては空気のような存在であった。
資料を相手にする仕事は、他人の人生の結末などという余計なものを見なくて済むので、思いの外快適なものだった。だが一年後古井が定年退職していなくなるのに併せるようにすべての電子化が進み、アナログな資料や書類を整理しなければならないような仕事はほとんどなくなってしまった。かといってデジタル資料の管理はIT事業部という別組織が以前から動いているので、みえこの部署は必要なくなってしまった。やがて会社から勧告というか面談によって二者択一が求められ、結局みえこは僅かな退職金を手に退職することになった。二十八歳になっていた。
しばらく仕事もせずにぷらぷらしていたみえこは、ときどき遊びに行っていたショット・バーでアルバイトをするようになった。マスターは自称ミュージシャン崩れの、人のいい中年男だったが、みえこには哀れな将来が見えていた。若くして膵臓にガンを得て死ぬ運命。だが、アルバイトの身に過ぎないみえこにとって、そんなことは関係ない。店の客層は、マスターと同世代の四十代を中心にその前後の年代の男性が多い。みえこにとっては少し年上の客がほとんどだったが、アマチュアのバーテンダーとして働いているうちに、客と話をする機会が増えた。気軽なバーで若い女性バーテンダーに甘い顔をしない男はいない。馴染みの男達から軽口を告げられたり、ちょっかいを出されると、みえこは密かに持ち前の能力を武器に反撃するようになった。
「みえちゃん、デートしてあげようか」
「してあげようかって……あなたナニ様?」
「へへ、オレ様だけど何か? きっと楽しいと思うよ」
「うーん、大山さんは危ないからやめとく」
確かに大山というこの客は、いずれ不測の事故に遭って不遇な人生を歩むことになるのがみえこには見えていた。
「何が危ないもんか。俺ほど安全な男はいないぜ」
「あのね大山さん、バイクに乗ってるでしょ? あれってそうとう危ないのよ」
「ふーん、バイク乗りってのはね、必ずいつか一回は事故るものなんだよ。そんな一回や二回の事故にビビらずに乗り続けるのが、真のバイク乗りというものなんだぜ」
「やっぱり。そういう考えがまず危険」
「みえちゃんさぁ、今度ツーリングに誘うよ。気持ちいいぜ」
それから半年ほどして、大山はツーリング仲間とつるんで出かけた旅行で、本当にバイク事故を起こして半身不随になったと伝え聞いた。
「あなたは身体が弱いから」
「あなたは金遣いが悪いから」
「あなたは女癖が良くないから」
「あなたは働きが悪いから」
男たちの姿に重なって見えるものによって、その人の問題点がなんとなく予測できる。そういうものを言葉にして男たちに反撃しているうちに、みえこには未来が見えるらしいという噂が客たちの間で広まっていった。
「みえこちゃん、俺の顔に何か見えるんでしょ?」
常連客の利郎は三十三歳の会社員。同じ会社の先輩に連れられてきたのが最初だった。最近は先輩の顔はほとんど見ないが、利郎はひとりで足繁く通って来る。あまり姿を見せない先輩の方は、いかにも出世欲満々で先輩風を吹かした上から発言をするような人間だったが、その顔に重なって見えるものはどす黒く汚れたイメージで、あまりいい人生を背負っていなかった。だが、利郎には真っ白なイメージだけが見えていて、そこから先が見えない。真っ白で先が見えないとはどういうことか、みえこにはわかっていた。
「ほらぁ、ちゃんと教えてよ。俺の肩に何か怖いものが見えてるんじゃないの?」
ハイボールの中の丸い大きな氷をカラコロ言わせながら繰り返す利郎に答える。
「利郎さん、わたし、霊能者じゃないのよ。あなたの肩に水子が見えたりなどしないわ」
「水子って……なんで俺に水子がつくんだよぅ。だけどホント、常連の桑田さんには、健康の注意をしたっていうじゃないか」
「あれは、桑田さんがいろいろおせっかいばかり言うから、人のことよりご自分の身体を大事にねって言っただけ」
「ふぅん。そうなの? でも、何かが見えるんでしょ? 何かわかるんでしょ、未来とか」
「あのね、預言者でもないの」
「ね、お願い。俺、いま片思いしててね。いい歳してどうすればいいのかわからなくなってるんだ」
「あなたもう立派なオジサンなんだから、人になんか聞かないで自力でなんとかすれば?」
「それができないからこうやって聞いてるんじゃない。占いでもなんでも信じるからさ」
「だから、私のは占いとかじゃないんですって」
「俺の女運はどう? 悪くない? それくらいはわかるんでしょ? 足立さんが言ってたぜ。女癖を見抜かれたって」
「そんなデタラメ、他所で言ったら笑われますよ」
本当はわかっている。この利郎は悪い人間じゃない。三十歳過ぎにしてまだ子供のような純真さを残している青年だ。それが白いイメージと繋がっている。だが、その先がないということは、そういうことなのだ。この人は白いイメージのままで、まもなく命を断つ。だけど、そんなことは言えない。相手を不安に陥れるだけだから。みえこは見えない、見えていないと言い張るしかないのだった。利郎が高級クラブの若い女に入れあげた結果、騙されて金まで絞り取られ、自暴自棄になって首をくくることになるのは、もう少しあとのことだが、元来の生真面目過ぎる性格が仇になったといえる。
こんなことが繰り返されるうちに、みえこにはわかった。人と接する仕事を選ぶのは間違いだと。別に他人の人生を覗いてやろうなんて思っていないのに、誰かと接するだけで、顔を見るだけで、その人の人生が見えてしまう。そんなことを自分は望んでもいないのに。むしろその人の将来なんて知らないままで付き合いたいのに。出会いがある度に、ほとんどの人に辛い結末が見えてしまう。そんなものが見えてしまっては、ニュートラルな気持ちで付き合いができなくなってしまう。だからみえこはこの歳になっても男友達の一人も作れないのだ。ルックスが好きだなと思っても、あまりよくない将来のイメージがつきまとっていては、それ以上の関係になんて進展しようもない。明確な未来予測でもできるのなら、いっそ予言者として公表してデビューすれば結構な有名人になれるかもしれない。でもこの能力って。人の人生の良し悪しがなんとなくわかるなんて。こんなこと人に言っても、胡散がられるだけ。何の足しにもなりやしない。なんとかしてあげたくっても、信じてなどもらえず、結局あの保険会社のときの二の舞になるだけだわ。
みえこはバーを辞め、アパートも引き払って実家に戻ってきた。実家は父親がひとりで住んでいたが、小さな貿易会社を経営している父親は、海外出張ばかりしているのでほとんど家にいない。二十三年前、みえこの母親を亡くしてからの父親は、ますます仕事に集中するようになった。愛する妻を失って生まれた隙間を、仕事で埋めることによって立ち直ろうとしたのだ。娘のことはもちろん大切に思っていたが、すべてお金で解決する道を選んだ。みえこは充分な金銭を与えられ、家と娘のことはすべて家政婦にまかせられた。まだ小学生だったみえこは、少し変わった子で、大人からみても充分に自立した精神を持っていると思われており、みえこにとってもその方が都合がよかった。べたべたした親子関係を保たれるよりも、適度な距離を置いて自分を守ってくれる父親を良しとしたのだ。みえこが経済的に自立してからは、当然のことだが仕送りはなくなったが、今回の仕事を辞めた事情を電話で相談すると、家の留守番をするという名目でふたたび生活の面倒をみてもらえることになった。
みえこがこの町に戻って来た日、改札を抜けたところで見覚えのある人物を見かけた。宮間香澄は中学時代の同級生だった。茶色に染めた髪は当時と変わっていないが、大きく膨らんだ腹を抱え、キャリーバッグを引いてゆっくりとみえこの前を歩いていた。出産のために里帰りをしたということなのだろうか。三十路前の妊娠はけっして早すぎるというわけではないのだが、みえこにとっては意外な気がした。なにより茶髪で突っ張っていた香澄と、赤ん坊のイメージが繋がらなかったのだ。声をかけようかと思ったが、香澄の姿を見たからか、なんだか気分が悪くなってきて、そのままやり過ごした。
実家に帰ってしばらくは何もしないで暮らしていたが、三ヶ月も過ぎると飽きがきて、なんでもいいから仕事がしたいと思うようになった。町の小さな図書館に空きができたということを聞きつけて応募すると、他に希望者はいなかったようで、すんなりと決定。図書館の窓口という職を手にすることができた。図書館なら、あまり人と接することもないし、好きな本に囲まれて過ごすということはとても贅沢な気がした。それにこういうところにはさまざまな情報が集まってくるので、町の様子を見渡せるのもいいなと思った。こうして静かで孤独な生活を楽しんで、二年が過ぎた頃に、公園で真理と再会した。
◆ ふたり ◆
きい、きぃい。
遠くの方で動いている歯車が動くたびにきいと鳴って、それはきっと時間を動かす歯車なんだろうなと思えたが、ほんとうは錆び付いたブランコの音に過ぎなかった。
「でも、なんか、おもしろいね」
「…………」
「ふたり揃って舞い戻ってくるなんて」
きぃ、きぃい。歯車は確実に動いて、真理が知らなかったこの数年間の出来事を網膜の裏に刻み込んでいく。おぼろげに再現されるみえこの過去を自分のものにするために口を開くのだが、もう片方はむしろ黙っていることによって過去の出来事をやり過ごそうとしているのかも知れなかった。
「似ているのかな、私たち。それともみえこのが私にうつったのかな?」
みえこは過ぎ去った物語に疲れてしまったのか口を閉ざしていたが、特に苦しんだとか辛かったとかそういう感情はどこにもこびりついておらず、ただ疲れて、同時に過ぎ去ったことには開き直っているといった感じで微笑んでいるように見えた。
「結局、ここに戻って来るって、みえこにはわかってたんでしょう?」
みえこは口元を少し緩めて首を横に振りながら真理の顔を見た。
「自分のことは……見えないのよ。知らなかった?」
女教師が生徒を諭すような口ぶり。昔から変わらない、何もかも知っているのよという姉さまぶった話し方。嫌な感じではない。ただ、そういえば十数年も前に同じようなことを訊ね、同じような答えを聞いたような気がして、なんて物覚えが悪いのだろうと自分の頭が嘆かわしくなった。それでもまだ理解しきれなくて愚な質問を重ねてしまう。
「……そうだったの? てっきり私は……」
「でも、死んだ母や父のは見えたから、そこからなんとなく」
あのとき、白い布をかぶせられたみえこの母親。自分の母親にはどんなものが見えたのだろう。人の顔に重なって見える死のイメージとは、いったいどういうものなのだろう。恐ろしい死神の顔が乗り移るのだろうか。それとも、生きている人の顔の上に恐ろしいデスマスクが重なるのだろうか。想像するだけで怖くなってしまう。私は? 私にも何か恐ろしいものが重なっていたらどうしよう。
「私は? 私には何が見えるの?」
「真理は、帰ってくるとわかってたわ」
「で、その先は?」
「……言わない。……っていうかわからない。真理は私に近すぎて見えないのかも」
何か嫌なものが見えている? だから言わないの? いや、みえこと私はそんな間柄ではなかったはず。何かが見えていたら、正直に言ってくれる。言葉通りほんとうに何も見えないのだろう。幼なじみという関係でさえ、放った言葉の隅っこを探りながらみえこの目の中を覗き込んでしまう。これがもっと他人なら、心の中まで裸にするようなみえこの言葉を捕まえるわけがない。みえこは何か大変なものを背負って生きているのだということだけは理解できるような気がした。
「あの頃は、みえこのこと、すごいって思ってたけど、たいへんだったんだね」
「……別に……たいへんだとか、そうは思わないけど。私にとっては普通のことだから」
「普通のことか……そうだよねー。生まれたときから見えているんだから、不思議でもなんでもないね」
「むしろ、私に見えているものが、ほかの人には見えないって事の方が驚きだった」
それからふたりは、また昔のようにお互いの家を行き来して、ほとんど毎日会うようになった。みえこが図書館で働いている間、真理は家で本を読んでいたり、思いついたようにアルバイト探しに出かけたり。気が向いた日には、真理は何かしら食事の用意をして、みえこの帰りを待った。真理から夕食の連絡を受けたみえこは、喜んで真理の家に寄って夕食を摂った。
「未来が見えるって、いいなーって思ってた」
「真理、だから違うんだって。私には単純に未来が見えるわけじゃない」
「ああ、ごめん。そうだった。でもいまひとつわからないんだよね、未来が見えるのと、その、みえこがいう人生が見えることの違いが」
「うーん、確かに説明はしづらいかも」
自分のことでさえ上手く説明できないのに、人生が見えてしまうというみえこの力を理解なんてできない。何度聞いてもイメージできない。それにみえるものが明確に何かの形をしているわけでもないらしいし、実はみえこ自身にもよくわかっていないのではないだろうか。小さいときにはまもなく起きることを予感したこともあったように思うし、みえの力は、予知とそうでないものの間を曖昧にゆらめいているのではないかとも思える。
「結局、人生の結末が見えるってことでしょう?」
「ほら、人生ゲームって、知ってる?」
「うん、知ってる。ボードゲームでしょ? 最近ではテレビゲームにもなってるって」
「したことある?」
「子供の頃、山ちゃんちでしたことある」
「未来が見えるというのは、あのゲームでいえば何回目のサイコロで大儲けするとか、破産するとか、そういうことが分からなければいけないのよね」
「うんうん、それってまさに予知だよね」
「でも、私にはそういうのはわからない」
「なるほど。で?」
「だけど、人生ゲームの最後で上がりになったときに、その人がどういう状態になっているか、大金持ちなのか、貧乏なのか、喜んでるのか、悲しんでるのか、そういうのが感じ取れるの」
「ふーん……見えるんじゃなくて、感じ取れる」
「そう、見えるのではなくって、感じるの」
やはり何度聞いても真理には、なんとなく理解はできるが、実感としてはわからない。結局、その人がどんな人生を送るのかがわかってしまう。だが、年月や具体的な物事など、詳細がわかるわけではない。つまり、あなたはいついつこうなりますよ、とは言えないということなのだ。便利なのかそうじゃないのか、いまひとつよくわからない能力。
「便利だなんて、とんでもない」
真理がつい口を滑らすと、みえこは大げさに反応した。
「みんな誰しもが、幸せな未来のために、一生懸命いまを生きているわけでしょ? だけどね、私はそんな健気な人の後ろに、悲しい結末や、残念な将来を感じてしまうのよ。これって便利なのかしら?」
「……そうなんだ。そうか、辛くなっちゃうか」
「そういうの、いつも見ているとどんな感じかわかる?」
「暗くなる?」
「そうね、暗くなるどころじゃないわ。自分のことのように、絶望的な気持ちになるわ」
「そんな、人のことで絶望しなくても」
「仲良くしている仲間が、頑張っている友達が、いくら頑張ってもどうしようもない結末のために生きているとわかったら、どう思う、真理?」
「結末を知っているドラマを見ているようなものね」
「あ、それ、ちょっと軽すぎるわね。悲惨な結末を知っていて見るドラマよ」
「悲惨な……そうじゃない明るい結末の人もいるでしょう?」
「もちろん、いるわ。でも、たいていは努力した割にはそうでもないという結末を迎えるんだわ」
真理は思い出した。
だめ。だめ。あのひとはだめ。このひとはだめじゃない。だめ。だめ。
真理と並んで公園で座っていた小さな女の子の言葉。ダメじゃない、という言葉は五回に一回ぐらいだった。みえこには、真理の人生は見えないという。ほんとうに見えていないのだろうか。
夕食を摂ったあと、一息ついてからみえこは同じ宅地内にある自宅へと帰っていく。みえこが家に帰ってしまったあとで、真理はベッドに寝転がって目をつぶった。公園で並んで道行く人の姿を見ていた幼い自分たちのイメージが浮かぶ。そして次の瞬間には十年ぶりに再会したときの二人の姿に変わる。みえこが黙って真理に視線を投げかけている。やがて眉間にしわを寄せて悲しそうな顔で首を横に振る。だめ。だめだめ。そう言いながら首を振っているみえこに、真理はどうして? 何がだめなの? そう訊ねるが、みえこはそれ以上答えてくれない。そうだな。いまさらそんなことを聞いてどうなる? 結果はもう出てるじゃない。真理は思う。わけのわからない噂のおかげで会社を辞めることになった。そんな話がこの世の中にどれくらいあるのだろう。メロドラマじゃあるまいし。現実の世の中はもっと真っ当なものであるはず。どうして自分にあのような災難が降りかかったのか、皆目わからない。もし、事前にそうなることがわかっていたら、回避できたのだろうか。いやいや、そうではあるまい。物事はなるようにしてなる。仮に分かっていても、結局同じ運命になっていたに違いない。過ぎたことをいくら考えてもどうにもならないことを知りつつ、やはり身に降りかかったことを思い出さずにはいられなかった。
翌日の午後、みえこから電話が入った。夕方、図書館まで来て欲しいというのだ。どうしたことかと訊ねると、会ってから話すと言って電話が切れた。
「何かあった?」
真理は油を差したばかりの自転車で図書館に向かい、閉館間近の図書館の入口で帰り支度をしたみえこが出てくるのを待った。
「ああ、お待たせ」
「なんなのいったい?」
真理が訊ねると、みえこが少し声をひそめて言った。
「山本君って知ってるでしょ? 中学で真理と同じクラスにいた」
「ああ、山本純彦?」
「そう、彼が今日、ここに現れたの」
「現れた?」
「うん、図書資料を借りに来たの。私が勤めるようになってはじめてだったんだけど、あら久しぶり、みたいなことになって」
「ふぅん、よくわかったねぇ。それほど親しくしてなかったのに」
「そりゃぁわかるわよ。で、彼はいま私たちが通っていた中学で先生をしてるんだって」
「へぇ、そうなの」
「で、せっかくだから終わったらお茶でもしようって誘われたんだけどね」
「ふぅん、で、なんで私まで呼び出しを?」
「それがね、へんなのよ。彼の姿に重なって見えるものがおかしいの」
「おかしいって?」
「普通は何かしらイメージとしてつかめるのに、彼は赤黒い靄みたいなものに取り囲まれていて、その先が見えない。その上、なんだかぞっとする感じだった。あんなもの私ははじめて見たわ。ううん、そのぞっとする何かは彼自身が醸し出すものではなさそうなんだけどねぇ」
「うわぁ、何かわかりにくい話」
「ごめん、わかりにくくて。お茶するの、断ろうかとも思ったんだけど、なんだか気になって。あんな見え方がする人、はじめてなんだもの」
つまり山本と会うのに付き合って欲しいということなのだった。ふたりはみえこが会う約束をした喫茶店がある方向に向かって歩きはじめた。そこは中学と図書館の中間あたりにある国道沿いの喫茶店で、住まいとは反対方向にある。しばらく歩いて、二つほど角を曲がってもう近いところまで来ると、人だかりが見えた。喫茶店のあたりに救急車が停って野次馬が集まっている。なんだろうと思いながら近づいてみると、軽自動車が道路に少しはみ出た電信柱に激突し、車の前部がへしゃげているのだった。見物人のひとりに何があったのかを訊ねると、居眠り運転の軽自動車が、通行人を巻き込んでの事故だったという。車の一部であったであろうオレンジの硝子の破片が散らばっている。その下のアスファルトは油なのか血なのか、赤黒い染みが大きく広がっている。その近くに転がっている書類鞄を見つけたみえこが小さく「あっ」と声を上げた。
「あの鞄……山本君が持っていたのと同じ……」
巻き込まれた通行人というのは真理たちが会うはずだった山本純彦だった。このことだったんだわ、みえこが言った。あの靄の色は、アスファルトの血糊の色だ。
「だから、あんな見え方をしたんだわ」
若くして命を落とす運命にある人のイメージは何度も見てきたが、ほんの数時間後に事故で死ぬ運命の人の未来を見たのは、実はみえこにとってはじめてなのだった。
「私と会う約束をしなければ、こんなことにはならなかったのに」
「でも、みえこ、約束する前からそんな風に見えたんでしょ?」
「……そ、そうだわ。ということは……」
「みえこと約束しようがするまいが、こうなってたってことなんじゃないの?」
なんとか助けることはできなかっただろうかと繰り返すみえこの腕を掴んで真理たちはその場を後にした。後味は悪いが、ほかにどうすることもできなかった。
みえこはずいぶんと色々な人の人生の結末を見てきたけれど、まだ見たことのないタイプの未来のイメージがあることに驚いたと言った。
二人で三回目の夕食を終えて、みえこが帰ってしまったあと、家の電話が鳴った。誰だろう。この家の電話など鳴ることはないのに。何かの売込みだったら断ろう。思いながら真理は受話器を上げた。
「……もしもし?」
「………………」
「……もし?」
いたずら電話だと思って受話器を置きかけたとき、電話線の向こうで声がした。
「真理?」
男の声。
「真理だろ?」
「そう……ですけど。どちら様?」
「水上です」
心臓が、とくんとした。自分の息が乱れるのが聞こえた。次の言葉が出ない。なんでいま頃。真理が先月辞めた会社の先輩だった。
「ずいぶん探したんだぞ。どうしてるんだ?」
なぜ水上がここを知っているのだ。実家の電話など誰にも教えていないのに。
「いろいろ探したぜ。なんでお前、逃げていくんだ?」
逃げるって……みんなあなたのせいじゃないか。
同じ部署の先輩だった水上剛はさまざまなプロジェクトのチームリーダーで、社内でも一目置かれている切れ者だった。何度か一緒のチームで仕事をし、その流れで食事に誘われたりもした。そのうちに食事ミーティングはデートに変わっていった。ひと回り年上の水上には家庭があった。だからホテルに誘われたとき、真理は断った。水上のことは嫌いではなかったし、むしろ独身ならと思ったこともあったが、奥さんを跳ね除けてまでというほどの男ではなかった。だが、脂の乗っている年代の男は諦めなかった。二度、三度誘われて、一度くらいならとぶれかけたが、やはり思い直して拒絶した。すると、翌週、彼のチームから外されてしまった。それだけではない。しばらくすると、妙な噂が耳に入ってきた。真理が水上をしつこく追いかけているというのだ。次には、真理はストーカーにされていた。水上の家の周りをうろつき、家にまで押しかけて来たというのだ。真理は水上の家がどこにあるかすら知らないのに。そして真理は人事課から呼び出しを受けた。
「山下くん、噂は耳に入っていると思うんだが、あれは本当なんですか?」
水上と同期くらいかと思われる人事主任の男が黒縁眼鏡の奥から用心深そうに言った。
「噂って……あんなもの、人事課が気にするのですか?」
「いやぁ、一応確かめるのが仕事だからね」
「私がストーカーって話ですか?」
「ストーカーなのですか?」
「……どういうことですか? 私がそんなことするわけないじゃないですか」
「しかし、火のないところから煙は出ませんからねぇ」
「そんなこと、水上さんが言っているのでしょうか」
「いや、誰が言いだしたのかはわからないが……」
「とにかく、水上くんの家はめちゃくちゃになってるらしくって、人事としてはね、ちょっと山下くんを配置転換せざるを得ないんだよ・
「どうしてですか。どういうことですか。そんな噂を広げている人の方がおかしいんじゃないのですか?」
すぐに人事移動があって、フロアの違う事務課にデスクを移した。それでもなお、社内の人々から白眼視され、後ろ指を指され、居づらくなった真理は、退職願を出したのだった。その噂が原因かどうかはわからないが、水上も離婚したことを風の噂で知った。
こんなことがあったわけだから、水上のことなど思い出したくもなかった。
「何の用なんですか? こんなところまで」
「いや、ちょっと、なんだか悪いことしたなぁって。一度君に会って詫びたいと……」
いやだ。この人、まだ何か企んでいるんだ。
「いえ、あの、大丈夫ですから、ほっといてください」
真理は嫌な予感がして受話器を置いた。
その次の日も、また次の日も水上から電話があり、三日目にはとうとう玄関のチャイムが鳴った。ドアの覗き口から見ると水上の姿が見えたので、ドアを開けずに帰ってくださいと叫んだ。水上は、しばらく家の前を行ったり来たりしているようだったが、やがて諦めて姿を消した。なんなのだ。なぜ辞めたあとまでつきまとうの? いったい何の恨みがあるというのか。人を退職にまで追いやっておいて、今度は何をさせたいのだ。これでは水上こそがストーカーじゃないか。
翌日、再び水上からの電話が鳴ったとき、真理は思い切って会うことにした。もちろん一人では不安なので、みえこに付き添いを頼んだ。
七つほど離れた山越市駅は他社線も乗り入れている大きな駅だ。真理は土曜日の午後、その駅前にある喫茶店を指定した。
水上は先に来ていた。いちばん奥の席をとって、煙草を吸いながら真理が入ってくる様子を睨んでいた。黒いポロシャツにジャケット、前髪を垂らした水上の姿は、会社で見ていた切れ者チームリーダーとは随分違っていた。真理は極力感情を押し殺して言った。
「お久しぶりです。こちらは友人の芦高みえこさん」
「あ、久しぶり。こないだは悪かったね、家まで押しかけちゃって」
水上はウエイトレスを呼んで、真理たちのコーヒーを注文した。
「実は、君に悪いことをしたと思って……とても気になっていたんだよ」
「何ですか、いま頃になって」
「あの、君が部署を変わったあと、辞めたっていうことを知らなかったんだ。僕は多分、誤解されていると思うんだが、それでもちゃんと誤って説明しておきたいと思って」
水上は、すまなかったと謝ったあとで、声を顰めて話しはじめた。発端は水上の妻だった。水上香澄は、わがままで嫉妬心も人一倍強い女性だった。結婚するまでは、その本性が水上にはまったく見えておらず、むしろ甘えん坊で頼ってくる可愛い女性だと思っていたという。ところが、一緒に暮らすようになって一年も過ぎると、わがままが倍増して夫に対して女王のごとく振舞うようになっていった。独占欲も強く、夫の行動を逐一チェックするようになった。夫が主任になり、仕事が忙しくなると、帰りが遅いのはほんとうに仕事のせいなのかと疑った。あるとき勝手に携帯電話を調べたらしく、画像に保存されている女性のことを追求した。これは誰? なぜこの写真を大事そうに持っているの?
「ほら、真理と一緒に取り組んだ仕事をやり遂げたときに、達成感に満ちた君の顔を携帯電話のカメラで撮ったことを覚えているかい?」
水上は話しながらまた謝った。まさかそんなところにチェックが入ると思わなかったから保存したままにしていたのだと言った。妻には、会社の後輩で仕事を達成した姿を撮ったのだと素直に話した。ところが彼女は女の勘を見事に働かせて妄想に取り憑かれ、写真に写っている女性、つまり真理のことを調べ上げたのだ。会社に電話をかけて、受付嬢や水上の同僚たちに根掘り葉掘り聞いているうちに、水上がその娘と浮気しているのかもしれないと受話器の中に漏らし、会社の者が水上をかばってそんな事実はないと伝えると、今度はその娘はストーカーに違いないと主張したそうだ。香澄からの調査の電話が頻繁に入っていることを知った水上は、妻を厳しく叱った。すると逆ギレした妻は、真理を糾弾するメールを人事宛に送りつけるまでに至り、この一連の騒ぎで真理がストーカーをしているという噂になって静かに社内に広まったのだった。
人間社会って恐ろしい。真理は思った。なんで、どうしてそんな性格の悪い女のために私がこんな目に遭わなければならなかったのだろう。バカバカしい。自分には何ひとつ落ち度などないのに。責任が会社にあれば、会社を訴えることもありうるだろうが、そういうことでもない。ただ単に、頭のおかしい奥さんの餌食になっただけ。
「どうしてくれるんですか!」
「申し訳ない。すべては僕が悪いんだ」
謝られてもどうしようもない。もう退職してしまったんだし、いまさらそんな真相を聞かされたところで、どうなるものでもない。済んでしまったことをいくら掘り返しても、出てくるものはこれ以上腐りようのない言い訳と、意味のないガラクタばかりだ。
「だから、そんなことをいまさら私に伝えて、どうするんですか。どうしてあのときに、そういう事実を会社に言わなかったんですか」
「言ったさ。上司に伝えた結果、君は移動になったんじゃないか。あのときはそれが最上の方法だったんだよ。だが、怖いのはやはり人の口か」
「人の口?」
「そうさ。噂っていうやつだよ。誰一人悪気があるわけではないんだが、そういう痴話噺、みんな好きなんだよ。だから悪気もなく面白可笑しく言いふらす」
「迷惑……だから人間って」
隣で黙って聞いていたみえこが真理に代わって突然ぼそりと言った。
「話は聞いたわ。これで気が済んだ?」
水上はみえこと真理の顔を交互に見比べながら、表情だけで困惑の演技をした。
「申し訳ない。お詫びの印に何か……」
「私、もう帰ります」
真理が立ち上がりかけると慌てて腰を浮かした水上が言った。
「あ、ちょっと待ってくれ。話はまだあるんだ」
「何よ。何の話が残ってるんですか」
「妻の事なんだが」
「知らないわ、あなたの奥さんのことなど」
「別れた奥さん……」
またみえこがつぶやいた。
「そ、そうなんだ。あれからすぐに別れたんだ」
「子供がいたんじゃない?」
「みえこさんだったっけ……よくわかるね。そうなんだ。僕らには子供がいる。僕が引き取ろうとしたんだが、仕事もあるし……結局あいつが連れて出た」
「なんでそんな話をするの? 関係ないじゃない」
「うん、子供の話は……関係ないが……あいつは、香澄は、真理と同じ町に住んでいる」
「なんですって?」
なぜ自分を陥れた女が同じ町にいるのだ。真理には理解できなかった。追いかけてきたというのか? いや、そうではないらしい。みえこが確信を求めた。
「あなたの元妻の旧姓は……」
「宮間。宮間香澄だ」
水上と別れて家に帰る電車の中で、みえこが言った。覚えてない? 中学のときの同級生。宮間香澄って、高校は県外に行ったらしいけど、ほら、こんな田舎町にもヤンキーみたいなのがいたじゃない? 彼女は茶髪にしてそういう連中とつるんでいたと聞いたことがある。みえこの話を聞いて、真理は思い出した。隣のクラスにいた女子のことを。中学のときはあまり目立たなかったはずだが、三年のときに何度も補導されたグループの中に、なぜか彼女がいたことを。
水上は心配していた。真理の移転先を探してみたら、別れた妻と同じ町にいることがわかった。いったいどういうことかと訝った。香澄が真理を追いかけたというのなら、執拗な妻のことだからあり得なくもないが、香澄の実家は最初から同じ町にあるのだから。もしかして、同窓生ではないだろうか。もしそうなら、香澄はまた、真理に迷惑をかけるようなことをしでかさないとも限らない。水上はそれを心配していた。これからの真理の生活を脅かさなければいいが。水上の言葉を思い出した真理はみえこに訊ねた。
「ねぇ、水上の人生はどんなふうに見えたの?」
「やっぱり気になるよね? 言葉にするのは難しいんだけれども、ま、いってみれば可もなく不可もなくってところ。でもたぶん、離婚したことでずいぶん良い方に変わったんじゃないかしら。以前のイメージは見ていないからしらないけれど、最近変化したような感じがしたから」
「変化したとかもわかるんだ」
「なんとなくね」
「可もなく不可もなくか……」
「そんなことより、あの、別れた奥さんって、怖いよね。何を考えてるんだか」
「それなんだけど、私、一度姿を見に行きたいんだけど」
「うーん、真理。それはあまりお勧めできないな」
「どうして?」
「だって、逆に見つけられちゃったら、ちょっと厄介よ。あんなおかしな女」
「んー。でも同じ町にいるんだから、いつかきっとどこかですれ違ったりしちゃうと思うんだ」
「うーん……ありうるなぁ」
「だったら、先にチェックしといたほうが」
「そうかもしれないね」
「みえこもつきあってくれるでしょ?」
「う、うん。だけどね、実は私……」
みえこは、この町に帰ってきたときに彼女の姿を見かけたことを話した。
「間違いなくあれは宮間香澄だった。ちょうど妊娠していたときよ」
みえこは、改札を出たときに香澄を見かけたこと、お腹がぷっくり大きくなっていたこと、そして彼女の姿を見たときに、気分が悪くなったことを手短に話した。
「気分が悪くなったって……どういうこと?」
「うーん、うまく言えないんだけれども、彼女の上に重なって見えるもの、つまり彼女の人生の結末がなんだか気味悪いものだったの。具体的には言えないわ。だって私に見えるのはイメージなんだもの。なんていうか、どす黒いような、得体の知れない爬虫類をみているような……なにより変だったのは、二重に見えたってことね。もう一つのイメージは、透明で儚いものだった。きっとあれは、お腹の中の赤ん坊のものが見えたんだと思う」
結局、真理は躊躇した。みえこが“気持ち悪い”という表現を言葉にした時点で、真理の中にも宮間香澄のイメージが出来上がった。近づかない方がきっと無難だ。そう思ったから、もう、彼女のことは忘れてしまうことにした。ところが、それほど日を開けずして、彼女は真理たちの前に姿を現した。
「真理、人の人生が見えるって、どういうことだかわかる?」
土曜日の夕方、たまには外で食べようと言うことになって二人は近所のファミレスで夕食を摂ることにした。面倒臭いほど多くの写真が印刷されたメニューを広げて迷いに迷ってから決めたアメリカ産のステーキ肉をナイフで切りながら、みえこがいつになく暗い表情で聞いてきた。
「どういうことって?」
真理は文字通り何を聞いているのか分からずに聞き返した。
「そっか、急にそんなこと言われてもね。意味不明だよね」
「意味不明っていうか、だいたいみえこのその、人の人生が見える、っていうこと自体、私にはわかったようでわからないことなんだもの」
「そうねぇ、私だって説明しにくいものね。解説をするとね、たとえばあそこにいる親子の、あのお父さん」
みえこが視線と頭で合図する方向には、三十過ぎと思しき男性と、三歳くらいの幼児が並んでランチを食べていた。真理が見る限りこれ以上は上手に描けないほど平凡で幸せな親子に思えた。
「父親はたぶん仕事を失って、不遇なままの人生を送り続けるわ。あの子供は父親のせいかどうかはわからないけれども、思春期にグレてしまって、やはり父親と同じような、どうしようもないクズの人生を送ることになる」
「クズの人生……」
「そうよ。まぁ、言葉は適当なのかどうかわからないけれども、要するにろくに働きもしない、人を騙しては金を手に入れる、そんな感じ」
「あの姿、どう見てもそうは思えないんだけど」
「いまはね。だけど、すでに不幸ははじまっているんだと思う」
「はじまっている?」
「だって、あそこに母親はもう、いないのよ」
真理は、母親がいないことには気づいていたが、その意味までは考えていなかった。だが、みえこには、母親がいない理由までもが見えているのだ。
「でも、みえこ。あの男の子、あんなに素直そうだし、まだわからないんじゃないの、そんな先のことなんか」
「私にはそれがわかっちゃうの」
「あの人たちの人生が、行き着くところがわかる。あれ? ということは、あの人たちの人生って、すでにいま決まっちゃってるってことにならない?」
「ピンポン! さすが真理。そのとおりなの。私はそれを言いたかったの」
「つまり、運命として、何もかもがすでに決まっちゃってるってこと?」
「そうでなきゃ、何十年も先の姿がわかるわけないでしょ?」
みえこのことを小さい頃から知っているからこそ、まともに信じられるが、そうじゃなければ眉に唾を付けなければ聞けないだろうな、こんな話。真理はそう思う。しかし、人の人生の結末がわかるという言い方は、なんだか望洋としたイメージでしか伝わってこなかったけれども、運命がわかるだなんて言われると、随分と重苦しい話になっちゃうな。真理にはみえこの話の真意が見えてこなかった。
「あの親子、いくら頑張ったって、その運命は決まってしまっている。私にはそれが見えているんだから。そう思うと、あの親子がとても悲しい、虚しい存在に見えてくる」
「それって、変えられないのかしら?」
「私は、悲しい人生を背負っている人を救いたいと、いままでなんども試みてきたわ。だけど、見えているものが変化したことは一度もないわ」
「一度も……」
「そう、一度も」
「悲しい人生は変えようがない」
「自分で変えようとしない限りはね」
「そうか、みえこの話を受け入れないんだ」
「誰も私のいうことなんか信じないもの」
「変わらない運命」
「人生って変えようがない」
「だけど、みえこには、自分自身の人生の結末は見えないんだよね」
「……自分の悲惨な結末は見えないけれども、人間、どんなにあがいても、何をやっても、結末なんて結局変わらないんだと思うとね、自分のことじゃないのに、私まで生きていく意味を失ってしまいそうだわ」
ライトがいくつも天井に並んだ明るさの下で、家族や若者が賑やかに笑い合っているファミレスには似つかわしくないような深い話に、真理はなんと返事をしたらよいのかわからなくなった。話を逸らそうと思った真理は、みえこの後ろの席に座っている同世代カップルを見つけて、みえこに言った。
「ほら、みえこの後ろの席にいるあの二人はどうなんだろ。結構ヤンキーしちゃってるから、私から見てもあまりいい感じじゃないんだけれど」
みえこはゆっくり振り向いて真理が指し示す席に目を向けたが、一瞬動きを固めた後に、真理の方に向き直った。なぜそんな驚いたような顔をしているのかわからなかった。
「真理、あの人よ。あれがあの女よ! 香澄、宮間香澄!」
玉蜀黍畑の大きな葉がさざめくように抑えた声で叫ぶみえこの言葉に、真理は訪ねたことのない北方の海で薄氷を渡っているような気持ちに襲われた。やっぱりあの気持ち悪い感じは変わっていない、みえこはそう言って両手で顔を被って子供のようにいやいやと顔を動かしていた。偶然とは恐ろしいものだ。ついこの間、あの女に近づくのは止めようと決めたばかりなのに、向こうから姿を現してしまうとは。真理は、相手に悟られないように、みえこの肩越しにじっくりと女を観察した。自分たちとそう変わらない年代だろうと思ったが、舞台女優が無理やりアメリカ人に扮する時に被るウィッグのような、いかにも似非っぽい金髪に染めた頭はおしゃれというよりは汚らしい印象だし、安物のダンシングチームから借りてきたのかというような煌びやかではあるが年齢にはふさわしくない派手で若作りなファッションは、田舎町に暮らす小さな子持ちの母親とは、とても思えなかった。相手の男も、光沢ばかりが目立つ黒いジャケットをはおっており、どこかの風俗店の客引きのような出で立ち。決して知り合いになりたい人種ではない。そのとき、みえこが「あれ?」とつぶやいて、もう一度首を背中にまわして女を見た。そして「やっぱり」とつぶやきながら真理に振り向いた。
◆ 宮間香澄 ◆
「あんな男、別れてよかったわ」
狭いマンションの一室で子供の食事を作りながら香澄は思う。自分が赤ん坊の世話で大変なのを知っているくせに、残業だなんだとわざと早く帰って来ない。挙げ句の果てに会社の女といちゃついて、楽しそうに携帯のカメラで写メを撮ってたりして。あの女は何よ。間違いなくどこかで浮気をしていたに間違いないわ。そんな関係ではないなんて嘘に決まってる。会社の人たちまで口裏を合わせてるのが気に入らない。ほんとうのことを言えって。どいつもこいつも、嘘つきばっか。向こうがシラを切り通すのだったら、私だって黙っていられない。女がストーカーをしてるって話を作ってやったわ。水上の相手は配属を変えられて、とうとう辞めたんだって? 当たり前だわ。いい気味。人の夫に手を出すからよ。
それにしても慰謝料ってもっと取れなかったのかしら。あいつの浮気が原因なんだから、私はもっとたくさん請求したのに。家庭裁判所って女の味方だって聞いてたけど、案外頼りにならないわ。浮気の証拠がないからって、旦那の収入に見合った金額しか無理だろうって。私は一千万でも足りないくらいと思ってた。四百万なんて端金。まぁいいわ、別に養育費をもらうのだから。毎月十万っていうのは、助かるかも。もうすぐ二歳になる祥太が二十歳になるまでだから、えーっと……全部でいくらになるのかな? ま、いっか。
祥太はテーブルの前のチャイルドチェアに座らされているのに、なかなか食事が出てこないのでむずがりだしている。
「マンマ ンマンマ」
はいはい、できたから。ちゃんと食べるのよ。レトルトパックのまま温めただけのシチューを自分の皿と子供用の皿に分けて注ぎ込む。ご飯も真空パックのものを電子レンジで温めたばかりで熱々になっている。祥太にスプーンを持たせて、自分も席に着く。さぁ、早く食べましょうとホワイトシチューにスプーンを突っ込んだところで、祥太がぎゃあと叫んでお皿をひっくり返した。
「もうっ! 何してるの、祥太!」
シチューが熱過ぎたのだ。祥太が放り出したキャラクター付きの黄色いスプーンが床の上に転がっている。一旦は口の中に入りかけたシチューが口から吐き出されて、よだれかけになすり付けられている。祥太は両手で口を押さえながら涙を流してあぐあぐと喘いでいる。
「熱いからって言ったでしょうが。ほんとうにこの子はへたくそなんだからっ!」
嫌だ嫌だ、だから子供って嫌だ。ああー、何これ、口から全部吐き出しちゃって、汚らしい。またお掃除しなきゃぁいけないじゃないの。香澄は悪態を付きながら、ティッシュで祥太の手と口を拭い、ついでに床から拾い上げたスプーンも同じティッシュで軽く拭いてからもう一度祥太の手に握らせた。皿にはまだ半分がたシチューが残っているので、そのまま祥太の前に置き直す。
「ほらぁ、こうやってふーふーしてから食べないと」
母親の怒った口調にまたふにゃふにゃ泣きながらも、空腹には勝てないらしく、シチューの中にスプーンを突っ込む祥太。うぇうぇっと言いながら、スプーンを口に運んで、母親に言われたとおりにふーふーと息を吐きかける。
我が子が可愛くない訳ではない。いいえ祥太はとても可愛い。ほかの子とは比べ物にならないほど可愛いと思う。だが、それとは別だ。面倒くさいという思いは。実家の母親に祥太の面倒をみてよと頼むのだが、たまにならいいが、あんたみたいになんでもかんでも年寄りに押し付けてくるのは困る、私だって忙しいんだから。だいたいあんたが実家にいるのは窮屈だっていって別にマンションを借りてしまったんじゃないの。そう言って断られる。なによ、何がおばあちゃんよ。
祥太がおとなしくひとりで遊んでいる間はいいわ。だけど言うことを聞かなかったり、わけもわからずむずってわめくのは勘弁して欲しい。こっちも苛々してしまうんだから。祥太は神経質な質なのだろう、ちょっとしたこと、そうたとえば嫌いなピーマンがお皿に乗っているとか、お気に入りのスプーンじゃないとか、そんなことだけでわぁわぁ泣いて訴えるのだが、母親の香澄は親身になって訳を聞いてやらないから、ますます泣き喚くのだ。すると香澄もますます苛ついて、終いには祥太のほっぺたをつねったり、背中を叩いたりして泣くのをやめろ、うるさいっと怒鳴りつけるのだった。
香澄は息子のことを愛していると信じている。大好きな公園をお散歩しているときや、一緒に眠っているときとか、可愛くってしようがなくなって、ぎゅっと抱きしめる。あまりに強く抱きしめるから苦しそうにしていることもあったけど。でも急に泣き出して手に終えなくなると、もう嫌になる。この前も電車の中で泣いて喚いて、黙りなさいって言っても聞き分けがなくって。他の乗客から変な目で見られてしまった。訳もわからず泣きわめかれると、もう小さい怪獣か化け物みたいに思えてしまう。私は苛々すると、もうどうしていいかわからなくなって、つい手が出てしまう。
子供は動物と同じだから。口で言ってわからなければ、身体でわからせるしかないって、たぶんあれはママがそういったんだと思う。躾っていうものはそういうものだと。でも最近だんだんわからなくなってきている。躾なのか、虐待なのか。
あんまり言うことを聞かないから、泣き止むまで痛い目にあわせる。泣きわめいて近所迷惑だから、静かになるまで押し入れに閉じ込める。ひどいときには手足をばたばたさせて暴れるから、紐とかガムテープで手や足をくくり付ける。そのときにはそれが躾なのだと思ってしてるのだけれども、あとで冷静になってみると、もしかしてやり過ぎだった? って思うこともある。でもやっぱ仕方ないでしょう? ああするしかないのよね、そのときには。
食事が終わったら、お風呂に入れて、早々に眠らせる。眠らせながら、今日ママはちょっとお出かけあるからねと言い聞かせる。祥太ももうすぐ二歳なんだから、そろそろひとりで眠らなきゃぁ困るよ。
保育所に行かせている間と眠らせているときだけがほっとできる時間だ。とはいえ、昼間は仕事があるから自由時間じゃないし。夜、出かけている間に起きられると困るから、シチューには少しだけワインを混ぜた。あれでぐっすり眠るはず。まぁもう二歳なんだから、夜中に起きても大丈夫、ひとりでトイレにも行けるわ。ああ、急がないと遅れちゃう。今夜はみんながCLUBに集まるのだから。私にだって息抜きは必要なんだから。化粧をしながらあれこれ言い訳を考えている香澄。昔遊んでいたときのドレスに着替えて、もう一度姿見で確認する。ベランダの窓は祥太が勝手に出て危なくないようにロックしている。
香澄は電気を消して、静かに玄関を後にする。家を出てしまえばもう、気持ちは仲間たちのところに飛んでしまう。祥太は家の中だし、心配はいらない。いまからは私のシンデレラタイムだ。存分に羽根を伸ばそう。
最初はおそるおそるだったが、何度か繰り返してみると、夜ひとりにさせておいても何も問題は起きなかった。一度だけ床の上に転がって眠っている祥太を見つけた。夜中に目が覚めて、ベッドに戻らずに眠ってしまったのだろう。それからは、夜中に飲み物が欲しいかも知れないから、テーブルの上にジュースを置いておくようにした。家を留守にすることに慣れてきた頃には、朝まで遊ぶことも増えてきた。朝までに帰れなかったときのために、テーブルの上にはちゃんと食べ物も置くようになった。祥太は二歳になり、香澄は夜遊びにかまけるようになった。ネグレクト(育児放棄)なんて、言葉も知らない。
ファミレスで見た香澄の姿にオーバーラップして見えていたものが、以前見たものと違っていると言うみえこ。香澄たちのあとをこっそりつけていくと、二人は駅の改札に消えて行った。みえこがどうしてもと言うので、しぶしぶ香澄の元夫である水上に電話をかけて香澄の住まいを聞き出した。実家に住んでいるのかと思えばそうではなく、香澄は子供とふたりでマンションの一室に住んでいるのだった。香澄の留守中に行くのはどうかと思うと言うと、親が留守だから心配なんじゃない、とみえこは言った。小さい子供がいるのに、どうして夜出かけられるのよ。誰かに預けているんじゃないの? そうならいいんだけれど、私はそうじゃないような気がする。みえこが言うので、じゃぁ確かめに行く? 真理が訊ねるまでもなく、みえこはそうするつもりだったようだ。香澄のマンションに向かうふたり。
マンションはファミレスから歩ける場所にある古い建物で、難なく棟内に入ることができた。たいしたセキュリティーシステムのない頃に建てられた団地のような旧式のマンションだ。302号室。三階にある部屋の前まで来ると、子供の泣き声が聞こえた。胸騒ぎを感じるふたり。一階の管理人室まで行き、常駐している管理人に事情を話し、香澄の友人だということにして部屋の扉を開けてもらう。冬も近いというのに寒々とした室内。なんとなく嫌な臭気。暗がりの中で何かを踏んづけた。床にゴミや衣類が散乱しているのだ。電灯を点けるとようやく部屋の様子が明らかになった。シンクには洗われていない食器が積み重なり、コンロの上にはラーメンがひからびてこびりついた手鍋がそのまま置いてある。三角コーナーから生ゴミの臭いが漂っている。嫌な臭いはこれだった。床の隅には埃が集まり、菓子の包み紙やパンのかけらが落ちていて、もう何ヶ月も掃除されていないのではないかと思われた。ダイニングキッチンの真ん中に小さなテーブルがあって、牛乳パックが倒れて少しこぼれている。その下あたりで痩せこけた男の子がうつ伏せの姿勢で「ママ、ママ」と言いながらしゃくりあげていた。こんな状態がどのくらい続いてきたのだろう。数日か? それとも数ヶ月だろうか?
真理とみえこは管理人と相談して、すぐに民生委員を呼んでもらった。少し前のニュースで、育児放棄によって子供がふたり餓死していたという話に愕然としたことがあったが、あのようなことが起きていたのではないかと思うとぞっとした。みえこの言う通りに様子を見にきて良かったと真理は思った。到着した民生委員から名前や関係を訊ねられたが、保育所の知り合いだと嘘をつき、母親との付き合いに支障が生じるからと私たちのことは伏せておいてもらうように頼んだ。代わりに、子供の実の父親である水上の電話番号を伝えておいた。
「やっぱり、みえこってすごい。あんなことになっているのが見えてたのね?」
「……はっきりとじゃないけど、何か不穏なものを感じたの。でも、もっとはっきり見えていたら、もっと早く子供を助けられたのに」
「ううん、みえこは救ったじゃない、あの子を。あのまま放置されていたら、いつか見たニュースの姉弟みたいに餓死させられていたかもしれないよ」
「それはそうだけど」
「あの子供、どうなるんだろう。あの母親だったら、また同じことになるのでは……」
「たぶん大丈夫。以前と違ってあの子にはしっかりした未来の姿が見えていたから」
数日後、みえこは真理の前から姿を消した。図書館に問い合わせると、長期欠席願いが出されているという。代わりの人を探しているというから、真理は登録してもらい、すぐに勤めることになった。
翌月、家の電話が鳴った。みえこからだった。
「うふふ、ごめんね、黙って消えちゃって。いまねどこにいると思う? バンコク……タイランドよ。えへへ。パパがね、いまこっちに長期で来てるの。で、追いかけて来たってわけ。うん、いいところよ」
いつになく上機嫌で、何かが吹っ切れたような声の調子。
「えーっとね、私、パパの人生を変えてやろうと思って。ううん、別にそんな悲劇な結末がパパを待っているってことでもなかったんだけど、とてもグレーな色をしたパパの情けない人生を、もっと明るいものに変えられるかもって思うの」
いつかみえこは、運命は変えられないと言った。変わることがないからこそ、人生の結末が見えるのだとも言った。だが、それは手を下さなかった場合の話だ。現に、香澄の子供には透明で儚いものが見えていたと言っていたはずなのに、以前とは違うものに変わっているとみえこは言った。いつまでも死んだ妻の影を引きずったまま生きているみえこの父親の未来は、決して明るくはない。みえこはそれは仕方のないこととして手出しをせずにいたのだが、あの子供を救ったことで、未来は、運命は変えることができるのだと考えを改めたようだ。
タイランドはいま乾季だ。眩しいくらいに真っ青な空は、日本にまで続いているかしらと、みえこは言った。なんかいいものを買って帰るから、楽しみにね。みえこはそう言って電話を切った。みえこの晴れ渡った気分は、そのまま真理にも乗り移ってきて、まるで自分自身も何かをやり遂げられるような気持ちが胸いっぱいに広がった。
了
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