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本が読めない女でごめんなさい

本読みの人には渋い顔をされそうだけれど。わたしは、本が読めない。いや、正確には、本が読めなかった、または、本を読むということがどういう状態を指すのか理解できない、ということかもしれない。

子どもの頃から、通知表で国語はいつも5だったし、テストも大体100点。国語の教科書は、新学期にもらったその日のうちに全部読んでしまった。国語は、大好きな教科だった。

だから、「読めない」というのはウソなのかもしれないけれど。でも、読書感想文はからきしダメだった、何を書いていいのか分からなかったのだ。本を読んでもその文章が心に入ってこない、覚えていられない、だから、そのよさを深く味わうことができない。母から与えられた児童推薦図書はまったく頭に入ってこず、気が付くと同じところを何度も目で追っていた。本を読むのが嫌になり、やがて読むのをやめた。

このことは長く私自身のコンプレックスとなっていた。だって、「本を読むこと」を誉める大人はあっても、読めないことを誉める大人はいない。編集者やライターなどという、文章を扱う職業にいて、読めないなどということは恥ずかしく、断じてあってはならないことだ(と断罪される)。いまも「えっ!読めないのに、書けるんですか!」と驚かれることはしばしばある。読むことと書くことは別のことなのだよ、という話は今は横に置いておく。

またもう少し、小心者の私は追記しておくと、仕事の資料として本を読むことはできる。ふむふむと納得し、時にガーンと脳天衝かれたような言葉に出会い感動する。それでもまだまだ読み方は浅いと思うし、人に伝えることは今でも苦手だ。

そんな私にも、何回か、あ、読めているな、と思った瞬間が訪れている。それは詩集であることもあったし、短歌だったこともある。自己啓発系の書物に目を覚まされたこともあれば、引き込まれるように夢中で読んだ小説もあった。そしてようやく、おそらく30歳を過ぎたあたりから、素直に本が読めるようになった。

はっきりとした理由など未だに分かりはしないのだが、この恥ずべき「本が読めない人間である」ということを公表してまで何を言おうとしているのかというと、「本が読めること=〇、読めないこと=×」という構図はやめてほしいというか、無意識にその前提に立ってしまうと、「本を読む」ということの本質を考えなくなってしまうのではないだろうかという投げかけでもある。

また、私の場合は、子どもの頃、「生きることは、考えること」だった。それゆえ、本という他人の「考えること」がギュっとつまったものに触れることへの恐れがあった。自分の思考は自分だけのオリジナルのものにしておきたいと強く思っており、それがいずれ大人になって「他人も同じことを言っていた」ということが分かれば、それは人間が考えうる自然で普遍な考えのひとつなのではないかと、考えていた。その考えのほころびも、甘さも、容易に突破できるものではあるが、小学生なりにそこまで考えてもんもんとしていた自分にひとまず〇をあげたいし、まあ、本を読んでいても読まなくても、いまはとりあえず気を楽にして生きているよと、お伝えしたい。

自分ひとり分の経験からしか考えられずに恐縮だが、本が読めないコンプレックスを持つ者として、いくつかわかった、シンプルな事実がある。

●本には「読みどき」がある。また、「本を読むのに適した年齢は人それぞれである」

●「おもしろい本」は、「自分に合った本」である。当たり前だが人がおもしろいとお勧めする本が必ずしも自分に合っているとは限らない。

●名文を読まなければ、悪文との判別をつけることは難しい。しかしここでいう名文は、必ずしも教科書に載るような作家でなくてもよい。

●本を読めれば考える力がつくかというとそうとは限らなくて、本を読めなくても人の思考は伸びていけるが、ある段階でここぞという本に出会うともっと伸びていく可能性がある。でもこれはもともと本が読めた人も読めなかった人も一緒。だからどっちが偉いということではない。


少数派かもしれないけれど、本を読まないということで人間性を否定されかけた人へ贈りたいと思う。でもね、本は好き。読める人がうらやましいと、いつも思っています。

そして、本が読めなかった私としては、子どもが本が読めないことを頭ごなしに否定したり、怒ったりしないでほしいとも思っています。