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モモコのゴールデン街日誌 シーズン2 第2話 「無言のお父さん」

ひょろりとした体型のその男は、長野県の上田でホームステイをしながら日本語学校に通っていたそうだ。

明後日の早朝、ドイツに帰るという。乾燥した日だったので、サッポロ生ビールをたてつづけに2杯飲んだところだ。

ホームステイと聞いて、ちょっと違和感を感じた。どうみても20代の若者ではなかったからだ。30代半ばか、または40代かもしれない。

3ヶ月滞在したそうだが、日本語はまるで身についていないようだ。

「私は長野県の上田で3ヶ月ホームステイをしていました。語学学校に行きました。私はドイツ人です」

すらすらと日本語で言ったが、おそらく自己紹介をするために暗記した文章なのだろう、そういったきり黙っている。

しかし、わざわざ最後の日本での夜を楽しむために、ゴールデン街まで来たのだ。私も気を利かせて、ちょっと上級者向けの会話をしてあげたいと思った。あの夜の新宿は楽しかったな、と思い出せるほうがいいではないか。とびきりのお土産になるはずだ。

「明日が最後なんですね? 明日は、東京の、どこ、行きますか?」

と、なるべくゆっくりと喋って投げてみた。

むずかしい単語ではないので、意味は分かるようで、何か言いたそうにしているが、悔しそうな顔で、言葉に詰まっている。

「あ〜!うう!わたし... は...!」

口をぽかんと開けたまま、両手を胸の前に出して、私の目をみている。そして、次の言葉が出てこない。

仕方ないので、英語に切り替えてあげた。

同じ質問をしてあげると、ホッとした顔になって、いろいろと話しはじめた。だけど、ちょっと残念そうな表情だ。

本当は3ヶ月かけて覚えた日本語の会話を試してみたかったのだろう。

しかし男も、誰かと話がしたかったのか、諦めて英語に切り替えた。

「まだまだ日本語は下手なんだ。ぜんぜん上手くならなかったよ。そもそも才能がないんだ」

ドイツではIT企業でコンピューター系のエンジニアをしているらしい。決して頭の悪い男ではないはずだ。しかしながら、語学は苦手そうだった。

会社から派遣されたかなんかで、仕事で日本に来たのかと聞くと、そうではないらしい。

自分の貯金を使って来たのだそうだ。会社には思いきって3ヶ月の休職願いを出してきたという。

「なんで日本に来たかって?それはね、いちばん苦手なことをやってみたかった」

なるほど。自分でも苦手だと分かっているらしい。

日本に長期滞在する若い外国人は、よく店に来る。元からコミュニケーション能力が高く、語学なども得意そうなタイプが多い。こういうタイプは、友達もすぐにたくさんできるから、さらにどんどん日本語が上手になるのだ。

しかし、この男は違った。自分が持っている知識や得意なことならいくらでもひとり語りできそうな知性を感じたが、確かに会話はあまり得意そうではない。

「でもさ、なんでそんな苦手なことをわざわざやってみようと思ったの?」

それに年齢も若くなさそうだし、という質問はしないでおいたが、なんとなく察したらしい。

「オレはこの20年間なんにも新しいことをやってないんだ。会社の仕事をするだけ。休みもそんなにとってないしね。だからこのままじゃ脳に刺激がなさすぎて、これじゃあダメだと思ったんだ」

「脳に刺激がない」という表現が珍しいというか、固すぎる感じがした。

「自分の国の文化とは全く違うところが良かった。何もかも知らないところ。だから特に理由はないけど、日本という国を選んだんだ。そして、勉強のなかで一番苦手だった分野だったから、語学をやろうと思った」という。

いかにもエンジニアっぽいというか、理屈っぽくて、旅や留学というより、なんだか人体実験に来た、みたいな言い回しだ。

「子供の頃から日本のアニメが大好きで憧れの東京に来ました!」みたいなよくある理由なら、盛り上がるのは簡単だ。

秋葉原でアニメグッズを買いたいとか、日本のパンクバンドのライブが見たいとか、日本の雪でスキーがしたいとか、一蘭のラーメンが食べたいとか、日本を訪れる外国人が好きそうな趣味や目的や前知識もほとんどなくてやって来たらしい。

「東京でなにするかって?特に何にもないよ。街をぶらぶら歩くだけ。ドイツに帰ったら、すぐに会社に戻って仕事がはじまる。ああ、嫌だな、このままずっと日本に居たい」

そういっておでこに手を当て、さみしそうな表情で空中を見つめている。

「また来ればいいじゃない?日本で仕事してみるとかどう?エンジニアならグローバル企業にでも入って、日本でも働けるんじゃない?」

「いや、オレはダメだ。仕事をするには、まだ日本語が下手すぎる。それに、今回の滞在に貯金をぜんぶ使い果たしてしまったから、また働かないといけない!ああ、オレ初めてこんなに長いこと会社を休んだよ。クビになったらどうしよう!」

そんな弱音をふんふんと聞きながら、3杯目のビールを注いであげていると、ソワレくんたちが連れ立って入ってきた。ちょうど東新宿のプティモアでライブが終わった後らしい。

ソワレくんは、バンドの子たちと隅で何やら打ち合わせをはじめ、ゆうきくんだけ暇そうにカウンターに座った。ゆうきくんは月曜日担当のバーテンダーの若い写真家志望の男の子だ。

「このドイツ人さんね、3ヶ月日本語の勉強してたんだって。でも、あさってに、もう帰るって」

ゆうきくんに話をふってみる。ゆうきくんは、通じているかどうかも気にせず、日本語で話しかけた。

「え!帰るの?名前なんていうの?なんで日本きたの?楽しかったですか?明日、なにするの?」

男は質問の意味だけはなんとなく分かるらしいが、またしても、言葉が出てこない。

しかし、日本人と会話したいのだろう、スマホを取り出し、グーグルトランスレート機能を立ち上げたのか、スマホを口に近づけ、ドイツ語でボソボソと音声を入力し始めた。

スマホをくるりと裏返しにして、画面の表示サイズを最大にして見せてくれる。

「私は名前をトーマスといいます。明日は自由な鳥のように街を飛び回ります」

と表示された。

私とゆうきくんは、

「トーマス!きかんしゃトーマスくん!」

とふざける。お酒の場ではこれくらいくだらない会話の方がいい。しかし、通じないので、『きかんしゃトーマス』の画像をグーグル検索して、今度は私がスマホを裏返して見せてあげた。トーマスくんは、顔をくしゃりとさせた。やっと笑顔を見せた。

おそらく彼は、このようにスマホの画面表示だけで会話するのに慣れていると見た。

きっと日本語学校やホームステイ先でもそうしていたのだろう。そして、そればかりに頼っていたから、毎日みっちりと勉強して、ホームステイまでしたのに、日本語が上達しなかったのかもしれないと思った。

「ホームステイ先の人はどんな家族だったの?」

私は英語で聞いてみた。ゆうきくんも英語は多少分かるようだけれど、ちょっと分かりにくい言い回しの時だけ少し日本語も加えた。グーグルトランスレートよりも、人間トランスレートのほうがいい。

「とてもやさしいです」

今度は日本語ですらすらと答えた。おそらくこれも暗記している文章なのだろう。

しかし、まだなにか言いたそうにしている。

「あ!でも!...!あー、ニホンゴ、ワカラナイ!」

としか言えず、またスマホに向かってドイツ語で呟こうとする。

「Chottomatte!」

私はすかさず止めた。「ちょっとまって」は、語感というか、リズムが面白いからか、外国人がすぐに覚える日本の言葉のひとつだ。

最後の夜なのだ。せっかく日本人と一緒にいるのだから、日本語での会話体験をさせてあげたかった。

「お父さんの、名前、なに?」

「名前?」

「そう、ホームステイ先の。なに?NAME of OTOSAN?」

「お父さん」という単語くらいは分かるだろうと思い、聞いてみる。

「ああ!OTOSAN!OTOSANは、名前は、シゲル!」

私とゆうきくんはまたしてもふざけて、

「シゲル!OTOSANはシゲル!」

と、とりあえず日本語で連呼すると

「はい、そう!OTOSANはシゲルさん!シゲルさんは、やさしい!」

と乗ってきた。意味のない会話がおかしくて、あはははは、とみんなで笑う。トーマスくんは4杯目のビールを頼んだ。

慣れない外国語での会話は、これくらい幼稚なのがいい。

気の利いた言葉を流暢に並べようとするから答えられないし、グーグルに頼ってしまうのである。

ひとしきりふざけたからか、4杯のビールのせいかわからないが、トーマスはやっとご機嫌になった。お土産としての日本語会話はこれくらいで十分かもしれない。

その後はまた英会話に切り替えた。

「ふむふむ、でも、さっきなんか言いかけてたけど、ホームステイ先でなんか嫌なことでもあったの?」

今度は英語で答える。

「いや、そうじゃなくて。感謝してもしきれないほど、優しくしてもらったよ」

ちょっと涙目になっている。

「雨が降っている日は必ずね、オレが学校に行く前に、OTOSANは何も言わずに車を出して、玄関の前で待っていてくれるんだ。そんなの信じられないよ。ドイツでは、そういう時は、雨だけど、車出そうか?とか、車で送ってくれないか?って、こちらから聞いて交渉するものだ。だけどOTOSANは何も言わない。でもやさしさを感じる。いつもそんな感じなんだ。自然に通じあってるっていうか。そういうところが不思議だったけど、なんか泣けてくるっていうか、でも嬉しかった」

彼が言いたいことはなんとなく分かった。

おそらくホームステイ先の家族は、引退した老夫婦なのだろう。英語はほとんど出来ない人たちのようだ。だから何も言わないのかもしれない。

それに、ホームステイの費用も払っていただろうから、彼はお客さんであり、シゲルさんは単に、仕事というか、サービスとして送り迎えしていただけかもしれない。

しかし、そこにぬくもりを感じ、感動した彼の気持ちもわかった。

私の田舎の父親も、雨が降ると何も言わずに車を出して待っていてくれたことがあった気がする。父親に限らず、そんなお兄さん、おじさん、恋人、友だちの横顔の感じが分かる。何も言わずに、車を出して待っている、あのやさしい感じを知っている、と思った。

日本語がまだ上手くないだの、なんだかんだと言ってたが、そもそも、日本人のほうがコミュニケーションは苦手だ。

日本人同士でさえ、言葉が出ない場面は多い。「ああ、うん、そう」とかなんとかごにょごにょいって、車のなかで待っているOTOSANは、どこにでもいる日本のお父さんな気がする。

しかし、それは何も言語の能力がないからではなく、そういうもんなのだ。

英語的な、西洋的な、コミュニケーションではない、ノーともイエスとも言わない、だけど、気持ちは伝わっているからいいじゃないか、というあいまいな日本的な態度は、国際社会には通用しないと言われがちだし、実際に外国人にとってちょっと奇妙というか、訳が分からない文化だろう。

私も英語を学ぶ時に、そこに苦労した気がする。日本人はそもそも、はっきりと意思表示したり、交渉したりするのに慣れていないのである。

そういう日本人が嫌だな、とも思っていた。空気感を読み合うことで誤解を生んだり、圧力を与えることもある。

しかし、彼の話を聞いていると、これもまあいいんじゃないかと思えてくる。

彼はきっと日本に来て、会話は上達しなかったかもしれない。だけど、なにかまったく違うものに触れたのだ。日本独特の「無言」を知ったのだろうか。

「ぜったいにまた戻ってくる!日本が好き。みんなやさしい」

もっと長く住んでみれば、そんなに良い印象ばかりになるかどうかは分からない。

しかし、とにかく彼はこの3ヶ月の体験で胸いっぱいになっており、感動したようだった。

少なくとも彼の計画どおり、彼の脳には、十分な刺激を与えたことだろう。



日盛りて獣やさしくなりにけり 夜桃


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