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モモコのゴールデン街日誌 「身に沁む」〜南米の黒縁メガネくん
店を開けたらすぐ、コロンビアから来たという若い男がひとりで入ってきた。28歳だという。
「イイデスカ?」
黒縁のメガネをかけており、大きな目が余計におおきく見えた。カールした髪も、上下で揃えたアディダスのスウェットも真っ黒だ。
入ってきてから、日本語しか話さない。しかし、ものすごくヘタだった。携帯の画面でグーグル翻訳を見ながら
「ビールイチ」
「クダサイ」
というので、
「そういう時はイチじゃなくて、『ひとつ』とか『一杯』っていうのよ」
と教えてあげた。
ちなみに、わたしは日本に観光に来ている外国人客には日本語は教えない。
「すごく上手ですねえ!!」
と大げさに褒めてあげるだけだ。
彼らにとっては、日本語はただのお遊びだから、間違えてもいいのだ。
しかし、この男のように、日本で働いていたり、学生をしている子たちには、少しでも役に立ってあげたくて、ついお節介な先生モードになってしまう。
聞くと、自分で起こした国際運輸会社をはじめたばかりだという。
厚いメガネの黒縁を光らせながら、話す顔は真剣だった。
こちらが気を利かせて英語で話しかけても、つたないながらも必ず日本語で返してくる。
「ボクハキギョウカデス」
少しでもはやく成功してやろうという強い意志が伝わってくる。
私は、しばらく日本語の先生に徹する。
発音や文法を訂正しつつ会話をしていたが、そのうちひとり、ふたりと入ってきて、店内は、イギリス人、韓国人、フランス人、オーストラリア人の客でいっぱいになった。
いつものように狭い店内で、はじめて会った外国人同士が、「どこから来たの?」「わたしの国ではね...」と、国際交流が始まる。
当然、共通語は英語だ。
ところが、黒縁コロンビアくんはというと、カウンターの端っこに移動し、客の輪に加わらない。
それどころか、イヤフォンを耳に挿し、iPhoneの画面を見つめはじめた。ぽそぽそと小さく呟いているのは、日本語勉強アプリでもやっているのだろうか?
まあ、意思が強いというか頑固というか、こんな状況でも意地でも日本語しか話さないつもりらしい。
いっきに入った客たちに、ひととおりの酒を出すだけで、てんてこ舞いとなったため、わたしもそんな彼を放っておく。
わたしの手が空いたところを見計らって、彼は時々顔をあげ、
「モモコサン、ビールイパイクダサイ」
という。
「そういう時は『もう一杯』のほうがいいよ」
「モーイッパイ!」
嬉しそうに笑ったが、それは一瞬のことで、またiPhoneの画面に目を落としてボソボソとつぶやきはじめた。
ちらっと見えた画面で分かったのは、アプリでなく、どうやら誰かとビデオ通話をしているらしかった。
その夜、彼はわたしが明け方5時に店を閉める時間まで居残っていた。つまり少なくとも6時間以上、電話の相手と話していたことになる。
ときどきトイレに立つ時もあったが、席に戻るとまたすぐに通話を再開した。
事情がありそうなので、さらに放っておいてあげることにした。
その間に何杯かビールを頼んだ。
「モモコサン、ビールモーいっぱいください」
注文だけは、だんだんと日本語らしくなっていった。
夜中の大騒ぎが過ぎ、客が帰っていく。ほっとひと息ついた朝の4時頃、わたしと黒縁コロンビアくんは、また再び2人きりになった。
彼もちょうど長電話を終えたようで、やっと質問をしてみた。
「誰と話してたの?」
また日本語で返す彼。
「ワタシのオクさんはクレイジーです!」
それだけでなんとなく察した。聞くと、奥さんには子どもが生まれたばかりという。
彼は奥さんと生まれてきた子供のために、これから頑張って金儲けをしなくちゃいけない。だから日本に来たのだ。
しかし、そんなことは分かっているものの、赤ちゃんとふたりで国に残っている奥さんは、寂しくてたまらないのだろう。
だから空いた時間はずっとビデオ通話をしているのだった。
しかし、黒縁コロンビアくんは、それにうんざりしている。本当なら仕事が終わった時間は、ゴールデン街の飲み屋でもなんでもいいから、日本人と話しをして、会話を上達させた方がいいだろう。
だが、彼に自由時間はない。
iPhoneの画面が、彼を閉じ込める箱であり、イヤフォンは、彼を縛りつける小さな鎖なのだ。
そんな彼に「おっつかれさま!」と明るく言ってみたものの、曇った顔は晴れそうになかった。
そんな時、ドアのビニールカーテンが持ち上がった。いかにも陽気なおじさん2人が入ってきた。
ちょっと訛りのある英語で、
「いっぱい大丈夫?始発を待つまで、飲んで行きたいんだ」
もちろん、といって彼らの陽気さに合わせて、笑顔を返し、カウンターにどうぞという風に手のひらを広げ、黒縁コロンビアくんの隣りに座ってもらう。
おじさんふたりは、むちむちとして多少小太りだが、いかにも充実した生活をしていそうな健康的な体つきだった。ふたりが座ると、店に充満していた鬱屈した空気が一瞬で薄まった。
そしてわたしはいつものように、彼らがどこから来たのかを聞いた。
「メキシコだよ!」
黒縁コロンビアくんは、ぱっと明るい顔になる。
そして、はじめて観光客に話しかける気になったようだ。
「メキシコですか?僕はコロンビア出身です!」
明け方のソワレに、偶然に南米人が3人集まったのだ。
3人はもちろん、共通語であるスペイン語で話しはじめたが、気を配って、わたしにも分かるよう、ときどき英語に切り替えて会話に混ぜてくれる。
メキシコおじさんのひとりは、航空会社に勤めるパイロットで、もうひとりも航空会社に勤めるエンジニアだそうで、学生時代の友だちだという。
「学校でね、オレは落ち着きがなくって先生によく怒られて、成績もギリギリだったのよ。コイツはしっかり授業に出てノート取ってたタイプで。だからテストの前はいつも世話になってたんだ。な!」
「なはは、そうだったっけ?」
落ちつきのない陽気おじさんと、人のいい優等生おじさんは、見ているだけで楽しくなるようなキャラの組み合わせだった。
調子にのって、わたしはあけっぴろげなバーのママさんモードに入ることにした。
黒縁コロンビアくんを覆う暗い霧を吹き飛ばすには、こういう台風みたいな人を巻き込むのがいい、と一瞬で判断した。
「このお兄さんね、ずーっと何時間も国の奥さんと電話で話してたのよ〜暗い顔して」
それを聞くと、メキシコの陽キャおじさんは、ちょっと真面目な先輩の顔になった。
どんな仕事をしているのか、スペイン語でいろいろ聞き始める。
黒縁コロンビアくんは、仕事の話しになると急に饒舌で早口になり、身振り手ぶりも入って、メキシコ陽キャおじさんと同じくらいの熱を発しはじめた。
ずっとあんなに暗い顔をしていた時は分からなかったが、やっぱり陽気な南米人というか、ヒスパニック人らしさがある。
ときどき優等生メキシコおじさんの合いの手も混じりつつ、会話が盛り上がっている。わたしはスペイン語ができないので、内容はわからなかったが、メキシコ陽キャおじさんが何かいうと、黒縁コロンビアくんは急に眉毛をあげたままの顔で言葉に詰まった。
メキシコ陽キャおじさんは、わたしに気を利かせ、英語で説明してくれる。
「オレがいったのはね、運輸会社やってるんなら、やり方教えるよって言ったんだ。オレも実はサラリーマンでもあるけど、会社も経営してるのよ。運輸会社も知り合い沢山いるから」
なるほど、ひとりで起業したばかりの黒縁コロンビアくんにとっては、いい流れじゃないか。
「それでね、おまえ嫁の選びかた間違えたな!っていったわけさ。オレの奥さんはね、オレの会社のマネージャーやってんのよ。子育てもしっかりやってくれてさ、子供は今はふたりともハタチ超えたよ。だから、海外で飛び回るオレの仕事にも理解あったわけ。逆にどんどん働けって言われたくらいだったのよ。だけど、コイツの奥さんは、たぶん何も分からないんだよな。だから縛られて、問題起きるわけよ。な!」
メキシコ陽キャおじさんは悪びれることもなく、ワハハと笑いながら正論をいう。優等生メキシコおじさんも、そこまで言うなよ、と止めるわけでもなく、「だな!」という顔で、にこにこ笑っている。
黒縁コロンビアくんは、人生のパイセンふたりから、そんな身も蓋もないことを言われ、返す言葉がなくなってしまったようだ。
そして、顔を赤く染めながら、またしてもつたない日本語で、わたしだけに分かるように話しかけた。
「ワタシは、ワタシのツマを、アイシテイマス!」
さっきまではオレの人生詰んだみたいな顔して、妻のことをクレイジーだとか言っていたのに、えらい変わりようだ。
そして、急にやる気になったのか、メキシコおじさんたちに、ツテを紹介してくれと言っているのだろう、iPhoneを片手に、身を乗り出しはじめ、メモを取ったり、検索した画面を見せたりしている。
わたしは、黒縁コロンビアくんの空いたビールのジョッキを持ち上げ「飲む?」という表情で、首を傾げてみた。
スペイン語で話すのに忙しい彼は、今度は「モーイッパイクダサイ!」という顔とともに人差し指を立てて、わたしに注文をした。
メキシコ陽キャおじさんは、ここはオレの奢りだ、と言いたいのだろう、人差し指で注がれたばかりビールジョッキを指差し、わたしの顔を見ながら、同じ人差し指でトントンと、自分の胸を叩いている。
もう朝の5時。さあ、そろそろ店じまいの時間なんだが。
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既読つき身にしむ風のあたたまる 夜桃
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