那珂川の流れを変えて町を救った女性の話(後編)
前編の振り返り
かつて、栃木県から茨城県を流れる那珂川がその流れを変えたことで、河口の那珂湊が水運の地の利を失って衰退したことがあった。それを救った一人の女性の話を紹介したのが前編の内容だった。
詳細はリンク先を確認いただきたいが、歴史作家の海音寺潮五郎がこの逸話を小説化して「事実あったことなのだ」と書いており、その事実を確認していくのが今回の後編の内容である。
これまでに分かっていること
海音寺潮五郎が短編小説「長久保なほ」に書いた史実と思われる内容は次の通り。
これは明治7年の秋から翌8年にかけての出来事であること
那珂湊の那珂川河口が途絶し、大貫町(現在の大洗町)が新たな河口になったこと
水運業で繁栄していた那珂湊がこれを契機に寂れてしまったこと
那珂川の河口の回復作業は困難を極め、多くの人が諦めてしまう中、一人の女性が地道に作業を続けて、ついにそれをやり遂げたこと
その女性の名は「長久保なほ」であること
以上だが、4点目はかなり推測まじり、5点目の名前は小説での創作の可能性が否定できない。
仮説を立ててみた
上記を調べるにあたり、いくつか仮説を立ててみた。それは、
河口の場所が変わってしまうほどの出来事なので、この時期に那珂川で水害があったのではないか
しかし、那珂川が流れを変えたのが河口から近い場所だったのならそれほど大きな水害ではなかったかもしれない
逆に、河口からかなり上流にさかのぼった場所で流れが変わったのであれば、相当な大水害があったに違いない
まず、明治期の那珂川の水害を調べたら、国土交通省のページに次の情報が出ていた。
明治7年頃に大きな水害の記録はないようだ。次に那珂川下流域の地図を確認し、特に高低差に着目した。
上記地図で左上から右下に流れるのが那珂川。河口の北側が那珂湊、南側は大洗。少し小さいが海上で「茨城港」と書かれているあたりが旧大貫町で、那珂川の河口はこのあたりへ移ったらしい。
地図左上の千波湖周辺の水戸市街から51号線の南側に少し標高が高い台地が連なっているのがわかる。那珂川の流れが変わったとしても、この台地を越えることは考えにくいので(もしそうなら大水害の記録があるはず)、51号線の北側のどこか河口に近い場所で起きたと推測できる。
そこで目に付くのが河口付近で那珂川に合流する涸沼川だ。同じく国土地理院の地図で、那珂川との合流地点から少し上流までの標高差を断面図で表したのが下記のグラフである。
グラフ左端が涸沼川と那珂川の合流地点で、グラフ右に行くほど涸沼川を上流にさかのぼった地点の標高を表している。見ての通りほぼ平坦だが、わずかに上流に行くほど標高は逆に低くなっている。
那珂湊付近の那珂川河口が土砂で埋まって塞がった場合、川の水はこの涸沼川を逆流していくのではないだろうか。
下図は涸沼川と那珂川の合流付近の拡大地図である。
仮に涸沼川を水が逆流した場合、上記地図右端の高台(「磯浜町」と書いてあるあたり)と中央下部の高台(「大貫町」と書いてあるあたり)の間のどこかで氾濫して海に向かって流れ、そこが新たな河口になったと予想される。
史実の確認ができた
ここまで仮説を立て、ツイッターで細々と情報発信をしていたところ、何と本件に関する有識者の方に届いたようで、次の情報を提供いただいた。2022年の「広報おおあらい」に掲載された記事で、確かに明治7年から8年にかけて、旧大貫町のあたりが那珂川の河口として機能していたことがあったそうだ。
上記の記事では「大貫堀川」と書いてあるが、ここは運河として使われていた時期があるようで、別の資料では「大貫運河」となっている。現在は「大貫勘十堀通り」と呼ばれる道路になっていて川は残っていない。
ちなみに、ガルパンファンならTVシリーズの最終回で、学園艦へ向かう優勝パレードで通った道という方が伝わりやすいかもしれない。
残るは那珂湊の河口が「土砂で塞がる」現象が起こりえるのかだが、明治時代の初期までこの河口付近は岩礁や砂州が多かったそうで、堆積物がたまりやすい地形だったようだ。そうであれば、「数日の風浪で土砂が堆積して河口が埋まった」という説明に無理は感じられない。
というわけで、諸々の資料を総合して考えると、海音寺潮五郎が「長久保なほ」に書いた内容は確かに史実だったと言ってよいだろう。
また、この史実を裏付ける史料として茨城町で翻刻した『大津忠順 当用手控』の明治8年の記事などに出ていることも、同じく有識者の方に教えていただいた。この史料はまだ確認できてないが、本件の最後の宿題としていつか中身を読んでみようと思っている。