夏の終わり、神戸
ひとり旅ができることは、大人になることだと思っていた。
ひとりきりで準備して訪れた初めての場所は神戸だった。後で旅を繰り返すうちに気づいたけど、海と山のある港町にばかり惹かれるわたしの原点は間違いなくここだと思う。
まだスタバもモニュメントもなかったメリケン波止場で、たまに跳ねる魚を眺める。初めて出会う海だけど、東京湾と繋がっているんだよななんてことを考えたような気がする。どこの海にいっても必ず同じことを考えてしまうだけなのに、初めての海は嬉しい気持ちになる。
次の日もぶらぶら歩いて、写真を撮って、コーヒー飲んで、また歩く。だんだんわかってきた土地勘を二度書きするようにウインドウショッピングをしたり、休憩したりしただけの旅行だった。普段の休日とあんまり変わりのないことをしているけれど、耳に入ってくる会話のイントネーションや、エスカレーターの立ち位置が明らかに違う。非日常感はそんなところにあった。
帰りの夜行バスまで時間をどう過ごそうか、すっかり気に入ったメリケンパークで跳ねる魚を眺めながら考えていた。日が傾いて名残惜しいけれど、堂々と西日を背負った阪神高速が眩しくて綺麗だった。23時まではまだ遠い。
雨が降ってきた。雫が大きい。空は明るい。風がない。踵を返してすぐそばだった海洋博物館に駆け込んだのに、もうしっかり濡れていた。辿り着いた頃にはもう止んでいるくらい一瞬の通り雨にバッチリやられてしまうなんて。ついてない。いい気分だったのに。わたしは神戸に嫌われたのだとため息をついて振り返り、息を呑んだ。
虹が出た。
目の前に、海の上に、大きな虹が2本。
この虹も一瞬のうちに空に馴染んで消えてしまうのである。
雨が降って虹が散るまで、体感的には10秒くらいの出来事が、夏の終わりの象徴になって今日もずっと残っている。
いまから11年前の8月31日、学生最後の夏休みだった。
見惚れているうちに服は乾いて、バスが新宿に着くともう9月になっていた。
古いパソコンが壊れる前に整理したら、撮ったことも忘れていた懐かしい写真がたくさん出てきて。もっと綺麗な写真を残せていればとも思うけど、撮ったときの気持ちはよく思い出せる。まだ残っていてよかった。また思い出すことができる。ノスタルジアの置き場所はたくさんあってもいいはず。
忘れたくないことを忘れていくようになると、ああ大人になってしまったなあと思う。
ひとり旅ができることは、大人になることだと思っていた。