私は安楽死を選ぶのだろうか

「彼女は安楽死を選んだ」NHK

先日、障がい者についての授業でこの番組について紹介された。その時は、安楽死を肯定する内容で障がい者団体から批判されたと教授はおっしゃられていた。
そこで、私自身もその番組を見てみることにした。安楽死については哲学思想などの授業で考えることがあり以前からだいぶ興味を持っていたためその日のうちに家に帰ってすぐに調べた。そこで色々なことを感じたのでここに書き記したいと思う。

安楽死について

まず、安楽死の定義について軽く触れたいと思う。日本では安楽死と一概に言うが、実は日本で言う安楽死は海外では安楽死と尊厳死に分けられる。この番組で取り上げられたのは安楽死の方で、日本の表現を使うならば積極的安楽死と言えるだろう。病床に付した患者に対して延命治療の中止、中断を行う消極的安楽死に対して、積極的安楽死では投薬によって患者に安らか?な死をもたらす。
これが簡単な定義である。表現の仕方一つとっても終末医療に対して日本がいかに他国に比べて遅れているかがわかるだろう。

私は安楽死(積極的安楽死)に賛成だ。それはこの世に2種類の人間がいるからだ。

2種類の人間

私は人間の「生」に関して2種類の人間がいると考える。

  1. 生の理由を自身に内包する人間

  2. 生の理由を他者に依存する人間

例えば1では自分の趣味や特技に磨きをかけその道に生きる人間。
2では家族を守ることにすべてを注ぎ込む人間。などが典型例に当てはまる。もちろん完全な二者択一ではなく、どちらも持っている人もいると思う。しかしながら、人間皆どちらかに偏っていると思う。

これが安楽死とどのようにかかわるのだろうか。

死に方を選ぶということは生き方を選ぶということ

これは、番組上で安楽死を選んだ女性が生前に口にしていたことだ。
よく 人生の生き方は人生の死に方に直結する と言われるが、逆もまたしかりなのだと思う。私には彼女の言葉がよく理解できた。
それはきっと、
彼女も私も、生の理由を他者に依存する人間だからなのだろう。

彼女は大学卒業後、韓国語通訳者としての人生を歩んだ。40歳のころ、新たな挑戦がしたいと考え、児童養護施設で働こうと考えた。しかし48歳のころに医師に病状について説明を受けた。

番組上の描写では完全にわからないが、彼女はきっと誰かのために生きたかったのではないだろうか。そしてそれが叶わぬ時が自分の死期なのだろうと思っていたのだろう。

安楽死への批判

授業では「この番組が障がい者団体に批判をうけた」と紹介されたが、私にはとても理解できなかった。

おそらく障がい者団体の人々は、同じ障がい者である人が症状に耐え切れず死を選ぶという構図が自分の存在価値を消されているのと同義であるように感じたのだろうと思う。中途障がいの人には耐えきれない「苦痛」であっても、先天性障がいの人からしたら「日常」なのだから。

しかし、私はとてつもない傲慢をそこに感じる。

障がいというものは、いくら理解をしようとしても実際になってみなければ本人の気持ちなどわからない。そしてその溝は先天の人々と中途の人々にもある。先天の人々は生まれながらにして人々と違う経験をしなければならず、中途の人は突然知らない世界に放り込まれる。
同じようで全く違う。

こんな差異がありながら、私たちは「同じ障がい者だから完全に理解し合える!」なんて桃源郷を見つめているからこんな傲慢な考えが生まれるのだ。

結局、障がいの有無にかかわらず他人は他人、自分は自分なのだから…

願い

私は死への選択権を法律で認めるべきだと思う。安楽死を推奨することは断固として許されないが、法律の範囲であるという事実が人々の生と死への選択を広げるのではないだろうか。

実際、安楽死が認められているスイスでも年間何人もの外国人受け入れがされており、そのなかにもちろん日本人もいる。

もしかしたら私のこのような考えを『「生」への冒涜だ。』と説く人もいるかもしれない。しかし、私からしたら生きたくもない人を無理に生かしていることこそ本当の「生」への冒涜であり、ひいてはその人自身の「人生」への冒涜でもあると思う。

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