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「言われなくてもわかってよ」について

いきなりだけれど、慣れというものはすごい。

水が怖くたって徐々に順を追って慣れさせれば人は泳ぐことが出来るようになるし、練習すれば補助なしで自転車に乗ることが出来るようになる。人は経験と時間を通して、知らない環境に「慣れ」として適応していく。そうやって私達人類は古来から大陸を移動して新たな居住地を作り上げてきた。身近な例で言えば、仕事や学校なんかで親元を離れて独り暮らしや寮生活を始めるのも一つの慣れの過程だ。

けれど、人間関係における慣れというものは時に怖い。同じ時間を過ごせば過ごすほど、相手は自分のことを理解していると勘違いするし、自分も相手のことを理解していると思い込む。その結果、勝手に相手に期待して望んだ風にならないと勝手に相手にがっかりする。

どうしてそうやってくれないの、どうしてわかってくれないの、って。こんな風に。

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けれど、忘れてはいけないのが、相手はあくまで自分とは分離した他人であるということ。たとえそれが親友だろうと恋人だろうと家族だろうとその一線を引き忘れてはいけない。どれだけ長い時を過ごそうと、どれだけ濃い時間を過ごそうと、残念ながら他人の心が完璧にわかるようになる日なんてのは一生来ない。そんなものは本やドラマの中だけだ。そもそも、私達は私達自身のことすら完璧にわかっていないじゃないか。

だからやっぱり思っていることは口にしないとわからない。相手が何を考えているか言葉なしでわかるならとっくに人間の心は機械で計算出来るようになっているはずだし、異国生まれの人と会話するのに通訳なんていらないし、そもそも会話するための言語なんていらない。

相手と意思疎通を図りたいのであれば、もう偏に言うしか無いのである。それをしないのは自分がコミュニケーションを怠っているだけに過ぎない。そのせいで人間関係が上手くいかなかったら、紛れもなく自分の責任だ。言わないでも考えていることをわかってほしいなんてのはまったくの傲慢である。

「言われなくてもわかってよ」ってよくいろんな台詞として聞くけれど、

わからないよ、人間だもの。みつを。

という冗談はさておいて、もし仮にエスパーが使えるなら、確かに言わなくても分かるかもしれない。けれど、そんな超能力大抵の人は持ち合わせていない。せいぜい出来るのは経験と状況から相手の心理を推測することぐらい。

私達がある人のことを「理解している」と勘違いしている原因は、その人に対する推測が、慣れで無意識にスムーズに出来るようになったからである。決して読心術が出来るようになった訳ではない。それにさっきも言ったように人間の心は機械じゃない、からいつも同じように働くとは限らない。今日の晩ご飯はカレーの気分だなとか、今日はこの道を通ってみようかなとか、そういう些細なことにも気まぐれは働く。だから推測にはブレや外れが多い。

そして、相手がどう思っているのか常に計算して顔色を伺うのは結構疲れる。伺っているその片方が一方的に疲弊してしまう。姫と召使いみたいな上下関係があるならまだしも、対等な関係を築きたいのであればあまりいい策とは言えない。だからこそ、お互いに少しづつ歩み寄る努力をしないといけない。

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私達はのび太君みたいにピンチを解決するための秘密道具はドラえもんからもらえないけれど、自分で言葉を紡ぎ出せる。秘密道具に頼ってばっかだと、ドラえもんがいないときに困るように、日頃から信頼の上に成り立つ慣ればかりを頼りにしてると、大切な人と真剣に話しているときに自分が思っていることうまく伝えれないし、親しき仲にも礼儀ありというように、慣れに甘えた図々しさが一線をこえて気づけば疎遠になってしまうかもしれない。だから、のび太がジャイアンと仲直りするときも、しずかちゃんに告白するときも、いつも必要なのは言葉なのだ。

大事なときこそ慣れという秘密道具の上にあぐらをかいていてはいけないのである。


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神原 百春
カ、カフェに行かせてください、、(^-^)