生きる言い訳を探している
こんばんは、もぬんこです。少し前に死生観についての記事を書いたばかりなのですが、約2日間のデジタルデトックスで色々と考えることがあり、死への考えを再度お伝えします。
根本的に私は「死にたい」と思っている
うつ病でもうつ状態でもないのですが、根本的に私は「死にたい」という気持ちをずっと持っています。
どんなに大好きな人と会っても
どんなに親友がたくさんいても
どんなに仲良い人がそばにいても
どんなに美味しいものを食べても
どんなに美味しいお酒と出会えても
やはり死にたいのです。「面倒臭さを全て排除した上で」死にたいのです。
自由の極みのように思われることが多いのですが、結婚の経験もあります。それでも感じたのは「誰かが一緒に居てくれてもどれだけ愛する人がいても根底の気持ちを変えることはできない」でした。
死にたいと思うことはいけないことなのか
常識を疑ってみました。
なぜ死にたいと思ってはいけないのか
2日間考えたのですが、答えは出ませんでした。それらしい言葉はたくさん出てくるのですが、「単純明瞭な答えはない」が結論でした。
生きるというのは面倒臭いものであるに記載していますが、死ねない理由はたくさんあります。
あくまでも死ねない理由(死ぬとなぜ面倒臭いか)であるだけ。「死にたいと思ってはいけない」という理由ではないのです。
私たちはあまりにも死を悪として、悲しいものとして定義していないでしょうか。
私の親友の一人にとても死に近い存在の方がいます。「亡くなったよ」という連絡がいつきてもおかしくないと思っていて、私はそれを受け入れています。もしも親友が死んだら私はとても悲しい。だけど彼女にとっては幸せな死かもしれません。誰かに生きて欲しいと思うことは、ある意味傲慢な願いなのではないかと感じるのです。
誰のどんな言葉でも私を変えることはできない
人は自分の意志でしか自分を変えることができない...私はそう思っています。
やりたいことや目標がある人はそれだけで天才です。自信を持ってください。そして、それが無いことは当たり前です。やりたいことがないのは悪ではないことを知って欲しい。
常識や周りのエネルギーに身を委ねることも悪いことではないと思います。誰かのせいにして生きることも良いでしょう。誰かのせいにして死ぬことも良いでしょう。どんな人がいても良い。私はそれを受け入れます。
ただ、私は自分のことは自分で決めたい。
だからこそ、私は自分自身で死に方を決めたいなと思っています。
生きる言い訳
人は本能的に生きようとします。だからこそ、逃げることも戦うこともできる動物なのだと考えています。
私は、「死にたいする面倒臭いこと」が全てなくなれば、もしくは生きる面倒臭さが死んだ後の面倒臭さに勝れば、必ず死にます。
ここに関しての本能的に防衛策をとっているのです。
それが「生きる言い訳を探す」という行動です。
1.○月○日に友達とご飯に行くというような約束
2.○○を食べないと死ぬに死ねないという決めつけ(自己暗示)
3.あえてブラック企業に身を置き私生活の思考を停止させる
4.存在しないとダメな状況を作り責任感を植え付ける(自己暗示)
etc...
語弊があるので補足すると、3については逃避したい何かが私生活にあるのであればとても有効です(ただの逃避行動)。
こういう自己分析や過去の振り返りが大嫌いな私ですが、この2日間で勝手に点と点が線になり、頭の中で人生を振り返ってしまいました。
死ねない理由ではなく「生きる言い訳」という言葉が舞い降りてきました。
理想の死をプロデュース
死への面倒臭さを全て排除するのはハードルがあまりにも高い。だからこそ、私は死ぬということを諦めているのかもしれません。
どうせ生きるなら楽しく生きようという発想にはならないので、「理想の死へ近づくために努力する」というのが私の今の生きる理由です。これは言い訳ではなく理由なんです。
人には押し付けませんが、自分に対しては完璧主義者の私。死くらい理想に近づけて、自分の思うように死にたいと思っています。
ただ、ハードルが高すぎて、心が折れそうになることが多いのが現実。だからこそ生きる言い訳で小さな旗(マイルストーン)を立て、私が私を活かしているのです。
本当に欲しい生きる理由を諦めている
私は小さい頃からたった一つ欲しいものがあります。ただ、それは手に入らないと諦めているのです。心から求めているものはいつだって一つ。物心ついた時からそれを理解しているので、このような思考を「生きづらい」と思ったことはありません。
逆に「死にたい死にたい死にたい死にたい」「殺したいくらい憎い」と大うつ状態になった4年間の方が、ある意味人間らしく生に溢れていたような気がします。もがき苦しみ、全てを破壊したいくらいの衝動。
きっとあの4年間は「生きてて欲しい」「死なないで」という言葉が胸に刺さったし、そばに居てくれた人がいたから生きながらえました。
今はあの時と違います。苦しんではいますが、もがいてはいません。そして破壊衝動はなく、達観しているような感覚です。他人からの干渉がダメになり、「好きに生きなよ。私も好きに生きるから。」という気持ちになってきました。例えそれが親友だとしても。私の死生観を理解し、緩く長く付き合ってくれるのが私の親友であるとも最近は考えます。
誰も傷つけず本当に欲しいものを手に入れる方法はありません。
人を傷つけて自分の生きる理由を掴み取る…そうなれない八方美人さが私の弱さなのかもしれません。
遮断しても入る情報
前述したようなことが頭をめぐる中、SNSを遮断していながらも入ってきた訃報。誰の意見も正解ではないし間違いではない。そう思いながらも理由を探す人々の会話が耳に入り、具合が悪くなりました。
SNSを断てばこういったことは耳に入らないと思っていたのですが、甘かった。聞こえてくる日常の会話は、SNSのソレであることを忘れていました。
違和感と嫌悪感で考えは加速し、私の生き方で一つの答えが見つかりました。
ゴールは死ぬこと
周りがどう思おうと、どんなに悲しもうと、どんなに苦しもうと、最後くらいは自分勝手に死にたい。後悔の欠片や迷いなく、「よく頑張ったね。もう死んで大丈夫だよ。」と自分を褒めて死ぬことが人生の目標です。
人生は悲しいけれど長い。
残りの30年〜50年で生きる理由が見つかる可能性も否定はしません。
その時は人生の目標は変わるでしょう。
始めから終わりまで目標値(ゴール)がブレない人生(プロジェクト)は、少ない。エンジニアらしく、修正しながら生きていこうと思います。
自分語りを経て伝えたいこと
生きる理由がなくていい。
死ねない理由があっていい。
前向きに生きなくなっていい。
死へ恐怖を感じなくたっていい。
生死は、人間が解決できない永遠の課題だ。不老不死というものが確立するまで、「現在の生死の議論」は尽きない。
不老不死(あるいはそれに準ずるもの)が確立したら、別の意味での「生死の議論」が始まる。そういうものだ。
正解はない。間違いもない。
ただ、生も死も可能な限り「自分自身が決める」が私は良いと思っている。
2020年は、多くの人が生死について考えることが多い。だからこそ、全てを否定せず「そういった考えもある」と受け入れられる社会であってほしいと思います。