心も備えあれば憂いなしだろうか
『子供の頃より大きな災害の話を多く見聞きするような気がする。』
平日で休業日の散歩中に、夫婦でそんな話をし始める。
さて、備えるとしてまずは何?
水、かなぁ。
そうだね、ペットボトルかウォーターサーバーか。
避難するときに持参するなら、ペットボトルかな。
避難かぁ、自宅にこもる場合を想定してるんだけど。
電気は、小さな発電機を一応買ったよね。
その場合、なんといっても暖房だな。
寒さで死んじゃうもんね。
有酸素運動のためにとりとめもなく話しながら、口から出る言葉とは違うことを、一人考えていた。
生き残る努力を、その時自分はするのだろうか?
自殺願望なんて無いし、子供には希望を持って生き抜いてほしい。
でも、自分は?
上昇志向に欠けるのか、なんだかもう十分幸せな気持ちに、時々なる。
その延長で、いつ消えてなくなってもいいような気も、無くはない。
これまでありがとう、結局いいことばかりだったのかもね、後悔もあったはずなのに思い出しもしないよ、さようなら。
説明が難しいけれど、口では不満ばかり並べたてる毎日なのに、本当は満たされている。
どこかの休憩所においてあった団扇の「足るを知る」ってのは、こんな感じなのかな?違うかなぁ。
さらに歩きながら重ねて考える。
現実に災害や災難に直面したときに、そんなのんきなことを考えていられるわけない。つまりは平和ボケと同じで、ある意味、想像力の欠如。各地の災害報道にいつだって心を痛めているのに。
案外、一番慌てふためいて反対方向に逃げるのかも。
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想像力の欠如ではないことに本当は気付いている。想像してしまう数々の悪い状況が実はとても怖いのだ。苦境のなか立ち直る努力を我が儘で怠け者の自分にはできないような気がするのだ。報道を見聞きしてその現場に立つことを想像するだけでやらなければならないことに押しつぶされそうになるのだ。不平不満をまき散らしながらもおそらく今が満ち足りているから失った状態で生きていく強さを自分の中に見つけられないのだ。
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はぁ、憂いだらけじゃあないか。