目標=中核感情に繋がっている状態を保つ
来週からセラピーが週一で始まります。
私の場合、感情が全くわかりません、という状態が前回の10年前のセラピーでした。
感情表現の単語がのった幼児向けの本を片手に、ニューヨークの街を歩いて、自分が何を感じているかそのなかから探し当てるという課題をセラピストから貰い、真面目にやってみるも、ラジオのチューニングが合わないみたいに、何も感じ取ることが出来ませんでした。
困ったな、と思いつつも、その練習をやっているうちにセラピーも終わってしまったので、結局継続しませんでしたが、再開しようと思います。
一人になって自分と向き合う時間が増えたので、自分一人でいる分にはやりたいことも察知できるし、気楽です。
でも、このままでは一人のままで人生が終わる気がしてきました。ただし、今までの人との繋がり方はもう懲り懲りです。
セラピーを通じて、今後は以前にはできなかったのですが、もっと自分を生かせるような繋がり方をしていきたいですね。仕事でもそして仕事以外でも。
その際に、自己主張は迷惑、なるべく完全無欠な人間であらねば、空気よりも軽い存在じゃないと相手に迷惑、と間違って信じ込んでしまっていたのですが、実はそういう虚像を保とうとする心理的葛藤/防衛こそが、優しい人たちとの繋がりを難しくしていたのだと思います。
無意識のうちにやっていたので、そういうことをしている理解さえなかったです。
自分の直視したくなかった情けない面も自分と認めて初めて、他人の全体像も見れるようになって、誰が本当に思いやりがあるのか、誰が自分と合うのかが見えてくるのでしょうか。
自分を大切にし始めて、前よりは成長したといえ、やっぱり「優等生、良い子」のまま、情緒的に止まってしまっていたことも認めざるを得ないというか。。。
本当にどうしようもなく惨めなところとか、情けないところとか、最近では何かと敗北感を味わうこともあるし、そういう「あー😩情けないなぁ」と失敗してクヨクヨ落ち込むことは、自分に許してこなかったのです。
そういう自分の一面はひた隠しにして表面を取り繕うために多大なエネルギーを使って、負の面は自分で見るのも人に悟られるのもいやでした。
親にもそういう「負の面というか、弱い面」は本当に一切見せたことはありません。幼児の頃から歯が痛い、とかお腹が痛いというようなことさえ「重荷になる」と思って言えなかったくらいです。本当に手のかからない良い子だ、成績もいいし、と褒められるのが嬉しかったのですね。
思い切って言ってみれば実は本当は守ってくれたのかも知れません。ただ、思い切って言ってみて、守ってくれなかったら(そういう可能性もあった)、見捨てられることになって、子供にしたら世界が消滅するのと同じようなことなので、恐怖感からどうしても言えませんでした。
「いい面」しか親に見せなかったので、共に悩んで共に成長して家族の絆を深めるような経験はなかったですね。
見捨てられるかも、という恐怖にかられて、弱音を吐いたりは出来ずに幼児の頃の恐怖心を抱えたままで突っ走ったのです。そうしていることも気付かずに。
歯が痛い、お腹が痛い、と両親に屈託なく言えるようだったら今の自分ではないでしょうね。仕方ないですけどね。
まるで後退しているかのようですが、前回のNoteで思わず書いた「自分だって大切にされるべき存在であったのに!」という怒り方をしたことが今まで多分なかったので、実は進歩だと思います。
自分の中核感情に繋がって、それをコミュニケーションしていくという、また大きな山が前に見えてきて「まだあったのか」と戸惑う気持ちもありますが、セラピストに道案内を頼みつつ、登ってみます。