だれの葬式にも行ったことがない

祖母が正月に救急車で運ばれた2年前から定期的に恐怖に襲われる。
その恐怖は「人の死を味わったことがないことから生まれる未知への怖さ」と「自分をここまでつくってくれた人のこれからがない寂しさ」という、気の沈み方でありソワソワ感だった。

もうすでに親族や友達を亡くしている友人たちに、ソレを相談する最近は
とても涙ぐむ毎日で
自分自身の均衡が、バランスが歪んでいく感覚。

他人である死さえ心が締め付けられて、目頭に水分が集まってくるのを
悪いことだとは思わないけれど
他人である私、亡くなった方との関係がない私が
涙するのは同情になっているのではないか、なんて思う。

と言うのも、その他者の死において同情という感覚ではなく
いち人生の終焉というものが
終わるということが
怖くて仕方がない。
特定の人の死が辛いのではなく、
私が普段目にしている「人間」という概念の崩壊を感じてしまう。

それが知った人間、関係が強くある人間の死になってしまったら
どうなってしまうんだろう、私は。
という恐怖は、今、どうにもなるわけがない。
未知なものへの恐怖は経験しないとわからないのだから。
そして、まだ、みんな生きていることがとても喜ばしいことを
大事にしていなきゃいけない。

でも、私は、最近、とても怖い。
縮んでいく祖父母や、祖父母に似ていく両親や
どんどん歳を重ねて自分が最近だと思う年齢に妹弟たちがなっていく。
ああ、あの親戚も。ああ、あの友達も。

おじいちゃんが亡くなったあの子は
空を見上げる回数が増えたと教えてくれたし
手のあたたかさは忘れられないとも教えてくれた。
そして、私の祖父母のルーツを聞きだしてくれて
思い止めておくことの大事さを教えてくれた。

高校時代に母親を亡くしたパスタ屋さんは
いつどんなタイミングでも受けるものも失くすものも
同じだと思う、と
自分に孫ができた時を想像したら元気でやってほしいと願うのであれば
そう思われてるから余計なことを考えるな、と言ってくれた。

私は、死ぬという事象を考えただけで
いつでも涙が出てきてしまう。
それをとりあえずは、私が生きているということの喜びであり
まわりへの愛ということにしてこう。

そう、今はまとめておく。

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