
『落研ファイブっ』(76)「執行猶予」
〈部活後 シャモ宅〉
〔シ〕「ただいま」
部活帰りのシャモがしおれたチューリップのように玄関を開けると、横浜マーリンズのユニフォームに身を包んだ父親がスニーカーを履いている所だった。
〔シ〕「どこ行くの」
〔父〕「横浜マーリンズの試合を見に行くに決まってるだろ」
失業したはずのシャモ父は藤崎の金で気が大きくなったのか、美濃屋が開いているうちからスタジアムにいそいそと向かう様子だ。
〔父〕「お前も来るかと言いたいところだが、ダメだな。お前は藤崎の若旦那としての修行があるからな」
〔シ〕「聞いてねえよ。今度は何だよ」
〔父〕「詳しくは母ちゃんから聞いてみろ。藤崎家の家令さんって方から修行用の書類が届いてら」
〔シ〕「家令って役職名だろ」
シャモが突っ込むと、父親はそうなのかよと言いつつ耳をかっぽじる。
〔父〕「まあ良いや。そうだ、今度の土曜日もホームでサンフルーツ広島戦。見に行くか」
〔シ〕「多分行けないと思うわ。じゃ、気をつけて」
父親は応援歌を口ずさみながら玄関のドアを後ろ手で締めた。
〔母〕「全くあのマーリンズ狂はいつになったら目が覚めるのかね。あんたはあんたでそんなにため息ばかりついて。本当に往生際の悪い男だね」
台所から顔を出したシャモ母が、シャモの胸元に分厚い書類の入った袋を突きつけた。
〔母〕「婿殿修行だとよ。喜びな。あんたがこいつを二十歳の誕生日までにクリア出来たら、しほりお嬢様を嫁取りだ」
〔シ〕「って事はだ、クリア出来なきゃ良いんだろ」
シャモの顔が一気にぱっと明るくなった。
〔母〕「その時は藤崎家の婿殿だ」
〔シ〕「どっちにしろ逃げられねえのかよ」
〔母〕「あんな上品で大金持ちで名家の美人お嬢様に何の不満があるって言うんだい」
絵に描いたように膝から崩れ落ちたシャモに、シャモ母は冷ややかだった。
〔シ〕「だから白蛇のっ」
〔母〕「縁起ものじゃねえか。有難く思いな」
それだけ言うと、シャモ母はごぼうのささがきを始める。
未だ見慣れない自室に戻ったシャモは、書類の中に入っていた家令の名刺をじっと見つめた。
〈木曜日 放課後〉
学校終わりのシャモが指定された場所で立っていると、一台の黒塗りの車が止まった。
藤崎の家令がうやうやし気げに黒塗りの車の後部ドアを開けると、そこにはしほりの父が座っている。
〔家〕「藤崎家の命運を左右する一大事ですので、直接総帥とお話しされるのが宜しいかと」
シャモはやられたと思いながらも、しほりの父の隣に座った。
〔しほり父〕「今日は部活は無かったのかい」
〔シ〕「はい。部活は月・水・金が基本で、休日にも練習試合があります」
〔しほり父〕「動画の配信もしながら部活に受験準備に。君も忙しい男だね」
しほりの父はたんぽぽの綿毛のような空気の奥に、得も言えぬ狂気と覇気を宿した男であるようにシャモには思えた。
一言で言えば、ただものではない。
※※※
丘の下で車を降りたしほりの父は、ゆったりとした足取りで坂道を登り始めた。
〔しほり父〕「君は、しほりを愛しているかい」
その言葉に、シャモは無言でうつむいた。
〔しほり父〕「そうだろうね。君の苦悩が僕には手に取るように分かる。君も『何も覚えていない』のだろう」
しほりとの記憶が無いことをズバリと言い当てられたシャモは、思わず息を飲んだ。
〔しほり父〕「僕ら夫婦が出会ったのも、君たちと同じ年頃だった。妻は藤崎家の御令嬢、僕は青果市場勤めの親父のせがれ。たまたま近所のコンビニでアルバイトをしていた僕を妻が見染めて。そこから先の流れは君と同じさ」
〔シ〕「では藤崎さんも婿養子で」
〔しほり父〕「ああ。藤崎家は女系一家。古の巫女の血脈だ」
〔シ〕「奥様は上海租界の客家の血脈だと人づてに聞きましたが」
〔しほり父〕「そうだね。妻の祖父が客家で上海租界にいたんだよ」
しほりの血脈が、華僑の中でも特殊な位置づけにある『客家』かつ上海租界にいた人物につながっていると聞いて、『みのちゃんねる』の血が騒いだ。
〔シ〕「藤崎さんも、何も覚えていないうちに話が進んだのですか」
〔しほり父〕「ああ、そうだよ。だから君が困惑しているのは良く分かるんだ」
しほりの父は昔を懐かしむように目を細める。
〔シ〕「そこからどうやって、婿養子になる決意をされたので」
〔しほり父〕「決意なんて無かったさ。気が付けば、僕は結婚披露宴でケーキを切っていたよ」
〔シ〕「驚きましたよね。後悔はしなかったんですか」
〔しほり父〕「それが不思議なもので、一切後悔などしていない」
操られるままに結婚に至った事を一切後悔していないと言い切ったしほりの父は、清々しいまなざしをシャモに向けた。
〔しほり父〕「僕は君の苦悩と困惑が手に取るように分かる。そのくせ、しほりに『二度と』傷をつけさせまいと思う自分もいるんだよ」
〔シ〕「二度と。では横浜マーリンズの一件もご存じで」
シャモの問いに、しほりの父は静かにうなずいた。
〔しほり父〕「お相手には大変な迷惑を掛けてしまったが、あの子はしほりの『相手』では無かった。藤崎の婿になる男は、その『血』に見染められると記憶が、いや、『時系列が飛ぶ』性質があるようなんだ」
『時系列が飛ぶ』とは、藤崎一族の総帥の口から紡がれるには余りに不釣り合いなフレーズである。
シャモは思わずしほりの父に聞き直した。
〔シ〕「『時系列が飛ぶ』とはどういう事ですか。僕がしほりさんと会っている間に記憶が無いのは、心理的なものや呪術の類では無いと」
〔しほり父〕「世界線の移行にあたって、タイムラインがワイルドカードのように差し替えられるんだよ」
〔シ〕「セカイセンノイコウ、タイムライン、ワイルドカード」
中二病も真っ青な単語を大真面目に語るのが、名家かつ大資産家として知られる藤崎家の総帥なのだから始末に負えない。
シャモはしほり父のペースに呑まれないようにと自分に言い聞かせながら、しほり父の言葉に耳を傾けた。
〔しほり父〕「今の君は、藤崎家の婿になる世界線へと辻褄合わせをされている真っ最中だ。だから急に倒れたり記憶が飛ぶことがあるだろう。僕が課題を出したのも、二十歳までにと区切りをつけたのも、その影響を少しでも和らげるためのものだ」
〔シ〕「影響を和らげるとは」
シャモの質問に、しほりの父はしばし言葉を探していた。
〔しほり父〕「しほりは光のようなペースで君を手に入れようとしている。だが人間には恒常性を保つ性質がある。肉体的にも心理的にもだ。君が『血』に抗う姿勢を見せている以上、しほりが君を手に入れようとすればするほど大きな反動が出るだろう。そうすればしほりはまた傷つく」
シャモはじっとしほり父の横顔を見た。
〔しほり父〕「このまましほりの、藤崎のペースに任せれば安泰な暮らしが待っている。『血』に見染められて操られたような結ばれ方でも、代々の婿殿は幸せに生きたのは本当だ」
丘の頂で、しほりの父は頬をなぶる潮風に身をゆだねていた。
〔シ〕「僕はしほりさんの好物も、好きな花も好きな曲も場所も何もかも知らないんです。それで僕がしほりさんの彼氏どころか婚約者だなんて、そんなのしほりさんに対しても申し訳ないと思います」
西日に照らされた横浜港を見下ろしながら、シャモは声を震わせた。
〔しほり父〕「『血』に抗って君がしほりを拒否したからと言って、君が不幸になる訳ではないだろうが。しほりの『血』はスペアの男を用意しているかもしれないね」
そこまで言うと、しほり父はまぶしそうに目を細めた。
〔シ〕「しほりさんが僕に一目惚れしてくれたって聞いた時、僕は躍り上がるぐらいに喜んだんです。それなのにこんなの。このまま流れに乗って訳の分からないうちに結婚するなんて嫌なんです。ちゃんと、しほりさんを好きになりたいんです」
その言葉に呼応するように、黄金色にふくれ上がった潮風がぶわっとシャモの体を揺るがせた。
〔しほり父〕「分かったよ。君がしほりと別れる事にしたとしても岐部家に出した五千万円は一切返す必要も無い。誰も君を責めはしない。ただしすべての帰結はしほりの『血』が決める事になるだろう。それだけは覚えておいてくれ」
目も眩むほどの黄金色の光の中、シャモは深々としほり父に頭を垂れた。
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
https://note.com/momochikakeru/n/n9f4f3da8d4fc
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