『孤島のキルケ』(11)
「二瓶様、午後の訓練は拙僧が担当いたします」
海豚の顔をした男の一声で、磯遊びをしていたとむはのんびりと岩場に寝そべった。
「チップが入ったので念動力回路が開きやすくなっているはずですから」
どうやら潜水艦を動かすのに必須の念動力回路とやらを開発する訓練を行うらしい。
「拙僧に続いて呪文を唱えらせませ。なるべく真似て」
真似ろと言うが、真似のしようもない。
どこから出ているのか分からないような高音域の早口で、しかも異国の言葉と来たものだ。
「天竺(インド)由来ですので、初めのうちは舌がもつれるでしょうが」
私の舌が何とか回るようになると、海豚の顔をした男はだらりと手を下げて、岩場の影を幽鬼のように徘徊しながら呪文を唱えはじめた。
時折全身を浄瑠璃人形のように操られる感覚を覚えながら、私は海豚の顔をした男の後を幽鬼の如く歩き続けた。
これが念動力とどう繋がるのか、さらには潜水艦の駆動と何の関係があるのかを考える余裕もなく、ただただぶつくさと呪文を自動的に口から吐き出すのみだった。
「止め」
脳内に海豚の顔をした男の声が響くや、私は操られるがままに楠にしがみつくセミのように、ゆるく膝を曲げ両腕で空を抱いて立っていた。
両腕で空を抱いたまま立ち尽くしていると、辺り一面がすみれ色に染まっていった。
「お迎えに上がりました」
私を現世に戻したのは、黄金色の毛並みの犬の一吠えだった。
「法主様、キルケ様が二瓶様のお戻りが遅いと気を揉んでおられまする」
「相分かり申した」
ぱんと柏手を一打ちすると、私の視界と意識ははっきりと覚醒状態に戻った。
「ではまた明朝」
互いに一礼すると、黄金色の毛並みの犬は私を先導するように暗くなった砂浜へと駆け下りた。
「フランソワ・ド・ブロアと申します。フランソワとお呼びください」
星が瞬き始めた夜空に、いかにも利発そうで若々しい声が響いた。
「シャンパーニュの出で、聖戦のためエルサレムに向かう途上、この地に漂着いたしました」
若いくせに堅苦しいふらんそわは、少し付き合いづらそうだと思った。
「では改めて私も自己紹介を。私の名前は二瓶十兵衛。桃山幕府御用達の織物商人として諸国を巡っている最中に、嵐に巻き込まれてここに世話になった次第だ」
黄金色の毛並みの犬改めふらんそわは、きるけえに良く懐いている。
目付のようなものかもしれないと思うと、とむのように気安く思った事をぽんぽんと尋ねるのは危険だと思った。
その想念もある程度ふらんそわには伝わっているのだろうが。
「失礼ながら仰せの通りです。二瓶様は脳内にチップを仕込まれた為、通常の人体に比べて思念の送受信力が大幅に高められています。我々獣体存在にはあなたの思念は直接言葉となってすべて送り込まれています」
私はしまったと思ったが、しまったと思ったその言葉もすべてふらんそわには筒抜けなのだ。
「二瓶様はキルケ様の前で無心になるように努めておられますが、キルケ様があえて思念の受信力を落としておられるだけです。素のキルケ様であれば思念の受信は容易に出来ますでしょう。増して人為的に思念の受発信力を高めた今の状態であればキルケ様に心の内を全て明かすも同然」
「どうすれば良い」
一旦埋め込まれたちっぷを取り外せないなら、このまま館に帰れば私の邪な思いも逃げ出したいと思っている事も、きるけえをちっとも愛せない事も筒抜けと言うわけだ。
とむは肝心な時にはいつもいない。
仕方なく、きるけえの間諜かもしれないふらんそわに対策を尋ねてみることにした。
「応急処置ではありますが、目をぐるぐる回されるのが宜しいでしょう」
からかっているのかと思ったが、謹厳そうな口ぶりの青年である。
私は目を左右に回してみた。
「いえいえ、白目を剥く要領で額側から後頭部を覗くように回すのです」
随分みっともない顔になること請け合いで、これなら呪いが掛かったきるけえの百年の愛も一気に覚めるだろうと思った。
とそこまで思って私はある事に気が付いた。
「あの館には、鏡がない」
「お気づきになりましたか」
薄黄色の明かりが漏れる館を前に、フランソワが聞こえるか聞こえないかぐらいの小声でつぶやいた。
「さて、目を回し、ふところの水をお飲みになったら玄関を開けましょうか」
ふらんそわは私の味方なのかそれとも――。
「私はキルケ様に幸あれと願うのみでございます。もちろんこの島の全ての者にも」
「あなた自身にもか」
「ええ、無論」
私はえいやっと目を上下に回し、水筒の水を飲んだ。
「さあ、帰りましょう」
一吠えするふらんそわの声に合わせて、玄関の扉が開いた。
「お帰りなさいませ、旦那さま」
きるけえが頬を染めて、伏し目がちに私の肩口に額を寄せてきた。
「戻りました。オオヤマネコはこちらに戻っていますでしょうか」
はぐらかすように問うと、あの子はすっかり旦那さまに懐きましたねと言って、きるけえは笑い二階に続く廊下を指さした。
どうやら潮だまりで遊び疲れて、寝台で本格的に寝ることにしたらしい。
「食事の前に湯を使われますか」
「ええ。その前にオオヤマネコが寝台を荒らしていないか見に行くことに致しましょう」
「あの子はすっかり旦那さまの心を奪ったようですわね。妬けること」
言いながらきるけえはふらんそわの背中を梳いた。
「では湯を使われた後に夕食に致しましょう」
今日は一緒に入らないのかと聞きかけて思いとどまる。
これではまるで私がきるけえを誘惑しているみたいではないか――。
「ではまた後程」
私は一礼すると、きるけえとふらんそわを残して二階へと上がっていった。
「おうおう、邪魔しておるぞ六十人目」
寝室の扉を開くと、むわっとした薔薇の芳香にくちなしと青りんごの香りが混じったような空気が私を取り巻いた。
「離せババア、ビヤッチ、ファック!」
寝台の上でとむを羽交い絞めにしながら、いしゅたるがからからと笑っていた。
「我と交合したいのか、トミー・ビスよ」
「シット、ファッキンスラット、ビヤッチ」
私にはまったく分からない言葉で、羽交い絞めにされたとむが吐き捨てていた。
「毛皮を新調したくなっての。そう言えばあのオオヤマネコの毛皮は上物じゃと思ってな」
とむは見た目よりもずっと怪力だが、戦いの神とも崇められているいしゅたるの前では、生まれたての子猫のようだった。
「あなたの世界に連れていくおつもりですか」
私はとむを羽交い絞めにしているいしゅたるに詰め寄った。
「このような所で飼い殺しにされる男ではないだろう。毛皮も欲しいし口もがらも悪いが、しつけのし甲斐はあるでな。美しいつくりの男じゃ。しばらく目の保養にも出来ようぞ」
ぐったりしたとむを絞める腕を緩めたかと思うと、いしゅたるはその腹に顔をうずめた。
「腹毛がもふもふじゃ。もふもふっ。初めから我に気を許せば良いものを、男とは下らぬ矜持で身を滅ぼすからな」
とむはもはや息をするのが精一杯のようだった。
もはや『ばびろんの大淫婦』たるいしゅたるを罵る言葉も出てこないらしいとむは、生気のない目で私を見た。
「お待ちください。オオヤマネコの換毛で毛皮を作る訳には参りませぬか」
「愚かよのう。これから冬になると言うに換毛など出るわけがなかろう」
「私は織物商でございます。毛皮がお望みとあらばこの島の山羊や兎から良き物を見立てましょう」
「それだけか。そなたの盟友を助ける代金にしては安いのう」
にやにやして聞いてくるいしゅたるからは、強いくちなしの芳香が漂ってきた。
「では、この島の……」
何も思いつかなかった。
妻子に再会する希望を失っていない私は、とむの代わりにいしゅたるの世界に行くとは言えなかった。
財も美しき織物の類もタコつぼ湾に奪われた私は、とむの命にふさわしい対価を持っていなかった。
ぜえぜえと息を吐くとむの首を横一文字に掻き切るような手つきを私に見せつけながら、いしゅたるは嫣然と微笑んだ。
「私が欲しいのはこの首ですわ、お父様」
いしゅたるは寝台から飛び降り、腰をくねらせ私の前で舞い踊りはじめた。
「首が欲しいのです。この者の首を刎ねてくださいませお父様。褒美に何でもくれてやると仰ったではないですか」
異国の謡だろうか。
緋色の履物の裾をはためかせながら踊る足元から、薔薇の花弁が散らばっていく。
「首が欲しい、首が欲しい、首が欲しい」
寝台に乗り上げると、いしゅたるはとむの頸動脈にかぶりつこうとした。
「とむっ」
寝台に乗り上げていしゅたるを制しようとした私の懐から、何かが勢い良く滑り出た。
ごつんと鈍い音を立て、水筒が寝台から転がり落ちた。
「ふん、エアの分際で。一つ貸しぞ」
いしゅたるは頭を水神が湛える水筒の水まみれにされた。
いしゅたるはとむの腹を針のような靴底で踏みつけると、そのまま虚空に消えていった。
「とむっ」
私はぐったりとしたとむの口の周りに、あふれ出る水筒の水を浸した。
針のような靴底に踏まれた腹にも、傷をつけぬように慎重に水を浸した。
しばらくすると、とむの呼吸が戻ってきた。
「びやっち」
憎々しそうにつぶやくと、ゆっくりと起き上がったとむは踏みつけられた腹を丁寧に舐め始めた。
「あれは何だ。首が欲しい、お父様って気持ちの悪い」
私も水筒の水を飲むと、腹を舐めていたとむが顔を上げた。
「ヘロデ王の娘にしてヘロデ王の妻ヘロディアの娘、通称をサロメと言う少女」
また私の知らない世界の話か――。
耳慣れぬ単語の羅列に、私はいつしか慣れ始めていた。
「俺とフランソワが信じる神様の世界の話だ。その昔洗礼者ヨハネって名前のそりゃ徳のとても高い存在がいてな。そのヨハネの首を、ヘロデ王って凄い王様の娘であるサロメが褒美に欲しがったって話だ」
「薄気味悪い娘だな。よはねとやらに恨みでもあったのか」
「知らねえよ。とにかくヘロデ王は皆の前で踊りを踊らせて、欲しいものは何でもやると言った手前、引っ込みがつかなくなっちまってな」
「娘のお望み通り、首を刎ねたのか」
「王侯貴族ったらそんなもんだろ。一旦口から出した言葉は貫き通す。そうでなけりゃ部下に舐められて、明日には断頭台の露の下さ」
神殿巫女としていしゅたるの言葉を正しく伝えたきるけえが、いしゅたるの顔を立てるために、偽神託を出したとして呪いを掛けられたのと同じ構図だ。
古今東西神の世界も人の世界も、権力者の見る景色は市井の庶民が見るそれとは大いに違うらしい。
「サロメにゃ大方あのど腐れ外道の総元締のババアが憑りついていたんだろう」
ふうと息を吐くと、とむは風呂に行こうぜと言い出した。
「あのババアに毛皮を台無しにされちまった。丸洗いしなけりゃケガレも落ちねえ」
どうやら以前もとむが言っていたように、とむとふらんそわが信じる神といしゅたるは不倶戴天の敵のような存在のようだった。
いしゅたるに散々にもてあそばれたとむは、一目散にヒノキの湯船に飛び込んだ。
「猫は水が苦手ではないのか」
「俺は人間だ」
湯船から頭だけを出すと、とむは不服そうに私をねめつけた。
「元は人間だったにせよ、今じゃいつも丸くなって寝てばかりじゃないか」
「そりゃ体がオオヤマネコなんだから仕方ないだろ」
「だから、オオヤマネコの体だと水に拒否感はないのか」
「確かにオオヤマネコの体になってからは湯を使う機会は激減したが、あんな腐れババアに毛皮を汚されたままにしておくのはもっての外だな」
私の問いに、とむはううむと空を見上げた。
「それにしても随分といしゅたるを嫌っているのだな」
とむは前足を湯船の淵に掛けたまま、ふいっと顔を背けた。
「俺たちがこんな目にあっているのも、あの腐れババアがくそったれ女に妙な呪いを掛けたのが始まりだろ。あれが神だなんて俺は絶対に認ねねえ」
「水神様の話からすれば、いしゅたるがきるけえを恨んでも不思議ではないが。そもそも神が男を奪われて嫉妬に狂うと言うのも、あまりに人間臭すぎて信じがたいが」
とむがどける気配が一切ないので、私は仕方なく身をすくませながら湯船に入った。
「狙った男に手ひどく振られた挙句に、下僕だと思っていた女に寝取られたんじゃ収まりがつかねえのは確かだ。男を取られて悔しいのと、格下の女に負けた悔しさとどっちが大きいのかは知らんが」
とむの言葉に私は大きくうなずいた。
「神が人に負けるなどありえないと、いしゅたるならば思うだろうな」
「俺はあれを神だと認める気は一切ないがな。あんなファックンビヤッチが神だと言うなら、この世界は無限に終わらないサバトそのものだ」
「さばとって何だ」
湯船から音を立てて出たとむに私は問いかけた。
「いかれトンチキババア共の気持ち悪い集会だよ。そうだな、百鬼夜行って言うのか、いやちょっと違うか。赤子を食らいながらしなびた乳をぶら下げて、裸で踊りまわるおぞましいアレだ」
「そりゃごめんこうむる」
うんざりとした顔の私に、とむは勢いよく水気をぶるぶると飛ばした。
「長湯してるとくそったれ女が来るぜ。それで良いなら邪魔する気はないがな」
「良くないに決まってるだろ。獣になるなんぞまっぴらだ」
私はとむの後を追って湯屋を出た。
「夕食に致しましょう」
乳鉢からカメムシを煎ったような匂いを漂わせながら、きるけえが私に向かってにっこりと微笑んだ。
さすがのふらんそわもこの匂いは苦手らしく、珍しくきるけえから離れた部屋の隅でじっと伏せていた。
きるけえは薬棚からマムシが漬け込まれた小瓶を取り出すと、乳鉢に数滴たらして良くこねていた。
頼むからその乳鉢の中身を私の味噌汁に忍び込ませないでくれと願いつつ、私は広々とした食卓に着いた。
「本日は少し趣向を変えてみました。慣れぬ暮らしでお疲れでしょうから」
「とろろ飯とは珍しい」
「しろばち山のふもとに自然薯が生えているのです。気が向かれましたら案内致しますわ」
「大変でしたでしょう」
「いえ、ご心配なく」
きるけえは自分のとろろ飯に乳鉢の中身をぶちまけると、私にも勧めてきた。
「いえ、私はこのままで」
「そうですか。精が付きますのに」
いやそれは困ると思いながら、私は無心でとろろ飯を掻き込んだ。
味噌汁の具も変わり種だ。
「牡蠣にニラですか。初めて食べましたが合いますな」
「ちょうど岩場の牡蠣が食べ頃でしたから、ぜひ旦那さまに初物をと思いまして」
「それは有難い」
味噌汁と言うよりは牡蠣の味噌煮に近いそれを平らげると、自然と私の心がほぐれてきた。
「お茶をどうぞ」
にっこりと告げるきるけえに、私は妻の面影を見た。
「痛っ」
足元で鶏肉とたわむれていたとむが、私の足の甲を叩いた。
妻ときるけえは全く似ていないのに――。
きるけえに操心されかかっていた私を引き戻してくれたとむに、心の中で礼をした。
『貸し三つ目な』
とむの声が脳内に響いてきた。
「ごちそうさまでした。とても美味しかった」
「それは何よりですわ」
食卓を立つ私に、きるけえが寄り添った。
「旦那さまはお酒はたしなまれないのですね」
気が緩んでしまうのを警戒しているだけでなく、元々あまり酒を飲むたちではない。
たまに飲みたくなったとしても、銚子一杯がせいぜいと言うところだった。
「余り得意とは言えませんので」
「あら残念。暖かいりんご酒でもいかがかと思いましたのに」
いつの間に用意させたのか、きるけえは芳香を放つ琥珀色の酒を手にしていた。
「お気持ちだけで」
私が言い終わらぬうちに、リンゴ酒の香りが口一杯に広がった。
「良い口当たりでしょう」
口移しでリンゴ酒を私に飲ませたきるけえは、血色を増した唇を半開きにしていた。
再度の口づけをねだられているのは明白だった。
「美味でしたが、私には刺激が強すぎるようです。ではお休みなさいませ」
私はにっこりときるけえに微笑みかけて、食堂を後にした。
とむが物欲しげなきるけえを押さえつけるようにじゃれついていた。
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
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