『孤島のキルケ』(15)
ふらんそわを呼びに館へと戻り行くとむの姿が見えなくなると、海豚の顔をした男は空から取り出した焚火を空に戻した。
月の光のみが私たちを照らした。
「今更だが、名前をお伺いしていなかった」
「ありません」
「有馬の湯の有馬に仙人の仙ですか」
「いやいや、名前を持っておらぬのです」
笑いも嘆きもしなさそうな海豚の顔をした男が、私の勘違いにほんの少し笑ったようだった。
「それはさぞ暮らしにくかった事だろうに」
海豚の顔をした男はそうでもないのだと言った。
「出家にあたって人の名は捨てておりますれば」
「僧侶としての名は」
「その名も捨て、拙僧は山へ海へと一人旅をしておりました」
ふらんそわが『法主様』と呼ぶぐらいの高僧だと聞いていたが、その身分すら捨てたのだろうかと私は思った。
「拙僧は伽藍の外を取り巻く民の骸と怨嗟の声を捨て置けず、伽藍の中に籠る生き方を捨てる事に致しました。そして漂泊の旅に出たのです。空から物を取り出し自在に雨を降らせ雲を吹き払う力を以って、苦しむ民が一人でも少なくなるようにと諸国を回ったものでございました」
海豚の顔をした男は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「日照りに見舞われた土地に雨を降らせれば、下流の村に大水をもたらしてしまう。農作物の収量を増やせば、他の村から夜盗がやってくる。因果応報を説いて聞かせる身でありながら、拙僧は災いと憎しみの絶えぬ世と何も出来ぬ己に、改めて打ちひしがれました。そして若き日に修行をした土佐の洞に籠る事にしたのです」
月に照らされた浜昼顔は、ぐっすりと眠りについていた。
「拙僧はこの身を土佐の洞に置いたまま、教えを求めて天竺へと旅をしました。ですが意識の中で天竺に行く事に飽き足らず、宋に向かう船に乗る事にしたのです」
明を宋と呼ぶ時代の人間なのかと、私はちらりと思った。
「大輪田泊まで出向いて、宋に向かう船に乗るつもりでした」
浜昼顔の群生を抜けると砂浜が隆起した岩場へと変わる。
その先には、ハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機が格納された洞窟がある。
「その日はいつにも増して雨風の強い日でした。収穫を前にした五穀が暴風雨に打たれてしまえば、大勢の行き倒れを出してしまいます。私は何度も雨ごいや日ごいに成功して来ましたから、いつもの調子で雨に挑みました」
海豚の顔をした男は、岩場の潮だまりに映る月を見つめた。
「雨は止むことがありませんでした。天に向かって呪文を唱える私の口は、水責めをされるようにすぐに塞がり、ほつれた袈裟は風に煽られてちぎれちぎれに空を舞っていきました。風が私を小突くように押し倒すと、私はうっすらと色づきはじめた稲穂と共に空を舞い、鳴門の渦に叩き落されました」
海豚の顔をした男は、再び足を止めた。
「旅の僧のあっけない末路でございました。鳴門の渦に揉まれながら、拙僧は自分の長年にわたる思い違いに気づいたのです」
月に照らされた黒い海に向かい、海豚の顔をした男はしばし読経し瞑目した。
「連れてきたぞ」
黒い海が寄せては返す音の彼方から、とむの声と二つの足音が聞こえてきた。
「キルケ様は就寝中ですが、あまり長くは不在にしない方が宜しいかと。館でお伺いする訳にはいきませんか」
ふらんそわの言葉に、とむはどうするとでも言いたそうに私に目を向けた。
「きるけえがこのままでい続けるのを良しとするか」
「と言いますと」
私の質問にふらんそわは怪訝そうな顔をした。
「きるけえがいしゅたるから掛けられた呪いを解く事が出来たなら、私達はもちろんの事きるけえ自身にとって最高の救いでしょう」
「ならば、本人と直接話すのが最良ではありませんか」
ふらんそわは楽観的な性質らしい。
本人と直接話すには危険がありすぎるから、わざわざ潜水艦の中にこもって話さざるを得ないというのに。
「今はまだその段階では無い。まずあなたに確認したい事がある。ある意味これが肝かもしれない」
私の声はいささか硬くなっていたが、ふらんそわは全く意に介さないようだった。
「何でしょう」
「その問いをここではしたくない」
「分かりました」
どこか納得のいかぬ様子ながら、ふらんそわはハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機の格納された洞窟へと着いてきた。
「二瓶様、開けられませ」
本当に面倒な操作方法だとうんざりしつつ、私は潜水艦の出入り口を開けると念じた。
「どうぞ」
海豚の顔をした男の声に従って、警戒した風を隠すでもなく、ふらんそわはハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機の中に入っていった。
私を最後尾にして全員が潜水艦の中に入ると、海豚の顔をした男が何事か呪文をつぶやきながら右手でらせんを描き、その手のひらを床に押し当てた。
「これで結界を張りましたので、想念がキルケに伝わる事はないでしょう」
「そこまでして何を隠したいのです」
ふらんそわの瞳が揺れた。
「なあ、フランソワ。お前キルケを愛しているのか」
ふらんそわが雷に打たれたようにとむを見た。
「私は……。私はもはや彼女を抱きしめ慰める事の出来ぬ体ですから」
とむの真っすぐな問いに、ふらんそわは明らかに動揺した様子であった。
「お前の気持ちだよ。お前が今人間だったら、キルケを愛せるかどうかを聞いている」
「どうしてそのような事を」
「きるけえの呪いを解くには、心底彼女を愛し抜く相手が必要なのだ。恐らく彼女はいしゅたるが明星の力を持っているように、月の力を元々は持っていたのではないかと我々は考えている」
私は明らかに困惑しているふらんそわに語り掛けた。
「キルケに掛けられた呪いを解くには、男の根と母の象徴としてのキルケの胎が真の愛情によって強く結ばれる事が第一条件。そこから生み出される愛し子によってキルケは真の救済を得て、呪いが解かれると考えています」
「それではまるでキルケ様は……」
海豚の顔をした男の言葉にふらんそわは絶句した。
「この見立てが正しけりゃ、男狂いのキルケとは実の所とんでもねえ大存在だったって訳だ。そりゃバビロンの大淫婦も力を奪って呪いを掛けて海に投げ込むわな」
とむが伸びをしながらふらんそわを見た。
「キルケが光るものや鏡を好まないのは、本能的に自分が持っている月の力が増幅され制御できなくなるのを恐れているのではないかと踏んでいるのです」
海豚の顔をした男が付け足した言葉に、私ははっとした。
『あれはただでさえ天界を統べるいと高き神の愛し娘であると言うのに、それだけでは飽き足らず何でも欲しがる癖があってな。ワシのような神々と取引したりだまし討ちしたり言いくるめたりして、神々の力を次々と手に入れた』
水神は確かにこう言っていた――。
「きるけえは神殿巫女どころではない。おそらく神殿巫女になるずっと前にイシュタルによって『消された』月の神だ。いしゅたるは同輩の神々の力を次々と奪って我が物にしたと水神様が言っていた」
「ああ、飲み比べに負けて力を奪われたとか何とか言っていたな」
とむの言葉に、ふらんそわは疑義を呈した。
「神はこの世に御一方だと知っているあなたまで、そのような事を言い出すのですか」
「まあ難しい事を言うなって。神っていうか、精霊っつうか、おとぎ話っていうかそういうアレだ」
「余り異教の神に入れ込むのは感心しませんね」
神の名の元に、えるされむなる聖地を目指したと言う十字軍の一員であるふらんそわにとって、ふわふわしてとりとめのない水神は頼むに足らぬ存在のようであった。
「きるけえと情を交わす男の中に、彼女の封印を解く役目を果たせる男がいるなら話が早いと思ったのだ。今この島で人の形を保っているのは私だけだが、到底彼女の封印を解く器とはなり得ない」
私はふらんそわの注意を本題に取り戻そうと、口を開いた。
「なあ、フランソワ。ニヘイさんはこう言うが、ニヘイさんがキルケと体を交わしても、それで彼女の封印が解けたとしてもお前は嫉妬せずにいられるか」
「彼女が私を狂おしいほどに欲しているのは分かっていました。しかし私には、湧き出る泉に漬かりながら喉が渇いたと叫んでいるようにしか見えないのです。湧き出る泉の水を飲むのは彼女自身にしか出来ないのですから、私には何もなすすべがない」
とむの言葉に、ふらんそわは深く頭を垂れた。
「ニヘイさんと一緒に湯を使っている事に対して何も思わないのか」
「二瓶様とキルケ様が通じ合い呪いが解ければ、それに越したことはありません」
「いやいや私は故郷に妻子がいる。通じ合うべきではないし通じ合う気もない」
私は慌てて語気を強めた。
「どうぞその言葉は御心の内にしまってください。キルケ様が一番聞きたくない言葉ですから」
それは言葉を換えれば獣化させられる引き金だ。私はぞっと身震いをした。
「なあフランソワ、お前はどうしてされるがままだったんだ。何も知らないお前を薬やまじないで自分好みの人形にしようとするキルケに、俺のはらわたは煮えくり返っていた。同時に、お前は進んでキルケの人形になっていたようにも見えていた」
しばらく黙ってふらんそわの言葉を聞いていたとむが口を開いた。
「それは、あの方が望んだから」
「望まれたら抵抗しちゃならねえって道理もないだろう。どうして我慢した。お前は俺たち凡夫と違って、肉欲の誘惑と闘っていた訳じゃあるまいに」
とむが身を低く構えながらふらんそわに問いかけた。
「それが神のご意思ならば。エルサレムに向かうはずだった私がこの地にたどり着き、彼女に出会ったのも神の御導きでありましょう」
ふらんそわは目を閉じた。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える(※)」
ふらんそわの柔らかな声が、ハイブリッド式パイケーエス型潜水艦初号機に響いた。
「そんな気持ちで交わったのか。そんな気持ちでお前に救われようとした女を抱いたのか! それなら性欲むき出しでがっついた方がまだマシだ」
とむはいらだちも露わにふらんそわに詰め寄った。
「御託なんかどうでも良いんだ。『私を愛して、私だけをを愛してると言って、私だけに恋い焦がれて』って半狂乱で取りすがられながら叫ばれた時、お前は何て答えた」
ため息をつくと、とむはふらんそわになり切った。
「呪われし乙女よ。いと高き主の愛と祝福をこそ求められませ。さすれば貴方の心は主の愛で満たされましょう」
とむはふっと鼻で笑うと、ふらんそわに食って掛かった。
「そんな言葉が届く相手かよ。苦しい助けて死なせてくださいって叫びなんだよあの女の『愛して』って言葉は。お前は神に仕え人を助けるなんぞ偉そうにほざきながら、目の前で苦しむ女から逃げたんだ。お前は俺たち凡夫と違って、あの女の体にすら価値を見出さなかった。あの女から見れば、体すら認めてもらえなかったんだ」
海豚の顔をした男は、うなずきながらとむの言葉を聞いていた。
「むきだしの情欲の最中まで、お前の頭は誰かさんから聞かされた綺麗事で一杯で、心が壊れて悲鳴を上げる女一人自分の言葉で慰める事すらしなかった。お前は残酷だよ。お前は聖者の振りをした小役人だ」
「とむ、今はそんな事を責めるべき時ではない」
私は激高するとむをなだめようとしたが、とむの怒りは収まらなかった。
「呪われた女に寄り添おうとすらせず、使徒パウロからくすねた言葉を小役人のように機械的にあてがって突き放したんだ。そうして絶望されたくせに、いつもそばにいてなぐさめた気になってるだけの偽善者だ。それがお前だよ」
ふらんそわはうつむいたままだった。
「なあ、人間になったらお前はどうしたいんだ。あの女が求めてるから体を差し出すって答えは無しな。『お前は』どうしたい」
「私は……。私は、何か大切な物を忘れたまま生まれてきたようです」
力なくふらんそわが絞り出した。
「そうかよ」
とむが吐き捨てた。
「私が仮に人に戻って熱を交わそうと、今の私の在り方では彼女の救いにはならないでしょう。呪いのせいで彼女を愛せないのではなく、これは私自身の在り方の問題です」
ふらんそわが悲しげにつぶやいた。
「もういいぜ。後は俺たちだけで話す」
突き放したようなとむの言葉に、ふらんそわは力なさげにうなだれた。
(※コリント人への手紙13章4-7)
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
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