名前のないもの

私は小さい時から、本を読むとき即時に映像が浮かんだ。

頭の中で勝手に配役が決まり、アテレコされ、BGMがついた上にフィルターがついて私の脳内に投影される。

他にもある。

夏の暑い風に、色がついて見える。小学生の頃プールで日焼けした肌を掠めた風の色は黄色だった。梅雨の時期は鼠色に薄紫を足したような色が見える。


かと言って私に芸術系の類稀なる才能があるわけではない。目もあんまり良くない。太陽光なんてもってのほか。でも、私には感じるのだ。


どちらかと言えば、美術はなんとなく先生の意図を汲めずに作れなかった。中学生らしいものなど作れなかった。熟語を真ん中に配置し、その背景にその言葉のイメージを描くというものだった。入学したての私は、「邪悪」という言葉を書いた。そしてその背景には、青く深い海があり、その中に怒涛の如く燃える炎がある絵を描いた。私は、本来無くてはならない場所に存在してしまうような自分の賤しい邪悪な心を描いたつもりだった。ただ、チョイスが悪かったようだった。周りの学生は「幸福」だとか「平和」だとかを書いて、ありきたりなクリーム色とピンクを用いて鳩を飛ばしていた。きっとそれが愛らしく美しい中学生の姿であったのだろう。ただ、私には思いが存在しなかったからそのような言葉では描けなかった。5月になるといつもこの制作を思い出す。

大学生になって、私は相当変わった。

それまでの私は、傍若無人ながらに勝手に些細なことで傷ついた。例えば、なんとなく先生が寝不足な顔で教室に入るだけで「あ、今日はキレやすい日か」と怯え、怖くなりおかしな行動に走った。この行動は、何しも悲しがるだけではなく、変に場の空気を盛り上げようとして目立つこともあった。

しかし高校生頃になると、私のこの性格に名前がつき始めた。

いや、名前が流行し始めたのだ。


そしてこの性質は、人間関係の構築に対してストレスを感じやすいことも理解した。


そこから私は「私」という概念をどこかで否定し、「私の性質」と向き合って生きていくことに面舵を切ったのである。


前述の通り、5月はよりセンサーが敏感である。


今日も私は、沢山の情報に囲まれることに密かな安堵を感じながら勝手に憶測の絨毯を広げている。


ただ、それを見せびらかしたりすることはしない。

自分の部屋だけで自分の絨毯に寝そべれば良いものだから。


まぁーでももしね

創作活動なんかできたらやっぱそういうのには絨毯を乗せたいなと思いますよね


この間のカラオケ大会は、きっとそういう気持ちも乗ったのであんなに楽しそうだったんだと思う。


というわけで、今日も勝手に生きています。


おやすみ。


Sincerely yours,


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百道あん
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