私の子ども時代③ 学校生活で感じたこと

小学校

忘れられない先生は、祖母の死の翌年4年生の時の担任の先生との出会いだった。
ジーパンにナナハン(750㏄の大型自動二輪車)で通勤する20代の佐藤由美子先生。もしかしたら、先生らしくないので、当時の保護者たちからは評判が良くなかったかもしれない。生徒は皆、名前を呼び捨てで、少し乱暴にも感じたけれど、誰にでも熱く優しく指導する熱中先生のような先生だった。私はそれまでどちらかと言えば、教室のすみで目立たずに過ごして帰る子どもだったが、その先生の指導のおかげで諦めていた跳び箱が飛べるようになり、それ以来「苦手なことに挑戦するという趣味」ができてしまった。人生を明るく変えた出会いだった。

こんなこともあった。

ある日家庭科の私の作品が、ハサミで切り刻まれたという事件。当時喧嘩中の友達もなく、私がいじめられていたということもなく、とてもびっくりした。
先生が一人一人と面談をしたが、結局、誰がやったかはわからずじまいだった。小学校6年生の私は、「表向きでは問題なく仲良くしているけれど、作品を切り刻みたくなるくらい嫌な感情を抱いている人がすぐそばにいるんだ」「意地悪をしたり、喧嘩をしたりしていなくても、嫌悪感を抱かれることがあるのだ」と知った。家族以外でも、人の心や人間関係に興味を持つようになる出来事だった。

カトリックの中学高校

祖母の自死のこともあり、両親が必死で子ども達の環境を考えてくれて、中学受験の末に、東京のミッション系一貫校の女子校に入学した。その学校は、刺青のあるお父さんがいる子どもやクラスメートを人種差別していじめる子どもがいるような地元の環境とは全く違う場所で、世界が広がり、知的にも教養的にも刺激を受けた。同じ学校には、有名な政治家や芸能人の子どもや孫などもいた。

頭にヴエールを被ったシスター達(日本人も外国人も)は、高等教育を受けたからこそ、その道を選んだようだった(今考えると、当時の女性が社会活動をするには、シスターや教師くらいだったのだ)。インターネットもない時代に、家族や世俗的な道から離れて使命を果たそうとしている姿は、大げさではなくマザーテレサを見るような感覚だった。上皇美智子様がご成婚前に訪問されたシスター高嶺は当時の理事長様だったが、アメリカとの戦争中、キリスト教の学校や外国人シスターたちを守るために、さまざまな知恵をしぼり、生徒を連れて靖国神社への参拝や清掃などもされた方だった。賢く知恵があり慈悲深い理事長様は、学校全体の女神様のような存在で、私が40才でカトリックの洗礼を受けた時には、このシスターのお名前をいただいた。

修学旅行などで神社仏閣を訪れるときも、校長様やシスターの先生方は、その場所の作法に従って手を合わせる方たちだった。私の、特定の宗教の信仰だけでなく、神々、大いなるものへの敬意と祈りの気持ちは、このようにして築かれていったのだと思う。
学校の先生に不満を感じた時期も、宗教の時間は心に響いていました。宗教の時間に歌った、レットイットビーやグレイテストオブオール、紹介されて読んだ「モモ」「果てしない物語」、三浦綾子や遠藤周作などクリスチャン作家の小説などを通じて、良い悪い、正しいか間違いかのジャッジではなく、人間の心の世界を考えていた。
一方、そうは言っても、シスターも人間で、教師として生徒に嫌味を言うなど未熟な人間らしい一面に触れることもあり、「神の道を生きる」というのはどういうことなのだろうと大変興味深く思っていた。
清く正しくいきるための信仰ではなく、弱いと自覚してサレンダーできる強さがあるからこその信仰とわかるまでには、随分時間がかかった。

部活は、演劇部に所属していた。宝塚のように、学校全体の憧れの先輩たちが所属するクラブで、上下関係も厳しかった。みなキャストを目指すのだけれど、舞台裏のスタッフと共に一つのものを創り上げる作業が大好きだった。その演劇部でも、高2の最後の公演でとんでもない経験をした。
文化祭公演本番中に照明器具が緞帳にあたって火災が起きたのだ。舞台袖で舞台装置の責任者として舞台を観ていたが、「ああ、これは濡れた雑巾で消火などという感じではないな」と思い、私は舞台に飛び出し、観客に避難を呼びかけ、消防車が入り公演は中止となり、翌日は警察の事情聴取だった。自分の高校時代最後の公演でキャストを逃し不本意な気持ちで準備をしていた邪念が、このようなことを招いてしまったのではないかと、内なる神と対話をするような我に返る事件だった。

中学から社会人まで20年間の長距離電車通学では、毎日痴漢にあっていた。痴漢は、決して変質者のような感じではなく、ごく普通のサラリーマンがほとんど。女性がいつも性的対象となり軽んじられていることを嫌と言うほど感じて過ごした。父への反発も重なって、男性社会への反発は強くなっていたように思う。

大学時代とお茶のお稽古

大学受験のための受験勉強は、まったく手ごたえがつかめないまま、希望の大学には入学できずに終わった。あまりに「受験勉強」に対する劣等感が強く、初心の通り法学部に進学したものの、私の司法試験合格を楽しみにしている祖父に後ろめたい気持ちで、その道を諦めた。

大学4年の春に、高校時代の同級生に誘われてお茶のお稽古に通うようになりました。先生は60代だったと思います。先生くらいの年齢の主婦の女性たちと一緒に平日昼間のお稽古に通いました。足腰の不調やお嫁さんやお孫さんなどのお話をしながらも楽しそうにお稽古している姿は、初めて見る「明るく楽しそうな大人の女性の姿」だったかもしれません。
私自身も、神経衰弱になりそうな就活のストレスがすーっと流れていくようで、その時間と空間だけ、世の中から切り離されたように感じるお稽古にはまっていきました。先生にも大変可愛がってもらったことが、今までお茶を続けている力になっています。

≪就職・結婚・出産≫
開発途上国に政府から援助をする政府系金融機関OECFに就職、5年勤めました。開発と環境、天下り、国会待機、会計検査院、カラ出張、仕分けによる統合など、社会の一部を垣間見ました。
もう一つ印象に残っていることは、当時40代の上司に何度も食事に誘われていたことです。妻子のある方だったので、何度もお断りしましたが、海外出張の度にお土産をいただき、デートと称する食事に誘われました。奥さんとのなれ初め、子どもの受験、昔の恋愛話、自分の健康の話、介護の話など、男性はこうしたプライベートな話をこぼす場所がないのかもしれないと思った経験でした。このころから、男性には男性の辛さ、悩みがあるのだと思うようになり、私も両親の話を聞いてもらっていました。その上司には下心もあったかもしれませんが、私はなんとなく父と重ねて、普通だったら娘と父親はこんな感じなのかもしれないと思っていた気がします。
5年勤めて結婚後、退職しました。

さらに健康や自然療法への関心が強くなったのは、妊娠と出産、育児がきっかけでした。
機能不全だった自分の家庭を出て、恋愛結婚した夫と、新しい理想の家族を作ることに燃えていました。
当時は、ダイオキシンが問題となって「奪われし未来」という本がセンセーショナルでした。わが子が生きる世界や地球を守らなければという一心で、社会に関心を持ち、できるだけ自然な暮らしを目指しました。
2人目と3人目は自宅で出産し、自然育児友の会という育児サークルの活動と通じて、環境と子どもに優しい布おむつや、母乳育児、玄米菜食、オーガニックなどを実践しました。次女のアレルギーをきっかけに完全な菜食を7年近く続けました。「お肉が食べられないかわいそうな食事」ではなく、「より身体によい食事」であるという、マクロビオティックの料理教室に子連れで通い、師範まで学びました。深刻な病気はなかったものの、食べ物で身体に変化が現れることが実験的に体感できました。
予防接種の危険性も勉強し、予防接種を受けずに子ども達の身体を守るためにホメオパシーや野口整体などの自然療法も学びました。
専業主婦で三人の子育てに追われていましたが、子どもの健康と安全を守るという使命に充実していました。自分が育った家庭での反動だったかもしれません。子ども達が通った幼稚園のドイツ発祥のシュタイナー教育という考え方にも傾倒していました。

≪プレ更年期・アーユルヴェーダとの出会い≫
長女と次女の小学校受験が終わった38才くらいの頃、どうしようもない不定愁訴がはじまりました。婦人科でホルモン検査を受け、心療内科へ行っても、病名や原因はわかりませんでした。食欲がない、家事に手がつかない、イライラする、涙がとまらなくなる、ビールがやめられなくなる・・・・。そのうち、その辛さがまったく伝わらない夫への怒りと不満が爆発するようになりました。私の苦しみを察してくれない子ども達にもあたりました。喧嘩する両親を見て育ったので、絶対にしたくないと思っていたのに、かつて暴れていた父のようになっている自分がいました。子どもたちのためによくないと自分を責め、毎日死にたいと思っていました。自然療法や自然な暮らしを実践していましたが、授乳も妊娠もない私は何をしてもいいと思い、精神科で安定剤を処方してもらうようになりました。病院も先生と合わずに数件転院しました。安定剤を飲むと苛立ちや怒りはなくなりましたが、楽しいことや日常のやる気みたいなものも奪われて、それは苦しいものだったので、途中から怒りや苛立ちがあっても、楽しみややる気も感じられる方を選択し、薬はだんだん飲まなくなりました。それでも、気分と体調の起伏が激しく、苦しい時期で、42才くらいまで4,5年続きました。

(一番つらかったのは、夫との分かり合えなさだったような気がしています。後になって、アスペルガー夫を持つ妻のカサンドラ症候群というものを本で知り、そんな風だったと思っています。発達障害という言葉をきっかけに、人には、そうしたいくつかの傾向がグラデーションのようにあるとわかり、今は夫に過度に期待するのをやめ、してほしいこととしてほしくないことを言葉ではっきり言うようにしています。)

その頃、支えになったのが、アーユルヴェーダでした。アーユルヴェーダクリニックへ行って、診察を受けました。私の体質があること、体質に合わせた生活が必要であること、早く寝る事、毎日できたことを記すこと、ビールは昼に飲むこと、など小さな知恵をすこしずつ教えてくれる先生でした。
アーユルヴェーダの料理教室やお茶のお稽古にも救われていました。いろんな年齢のいろんな環境の人がその時間だけ集まって、おしゃべりしながら作業したり、お稽古して、美味しいものを食べる。そうした時間が心を癒すのだと実感しました。
数年後には、自分でもその時間を提供するようになりたいと考え、アーユルヴェーダの料理教室を月に2回ずつスタートし始めました。ブログも始めました。それまで沢山の情報を学び、手に入れようとして、いっぱいいっぱいになって暗く長いトンネルの中に入りこんでしまっていたので、持っているものを放すように人に話すということは、解放される感覚でした。

料理教室の主宰とともに始めたのが、裁判所での民事調停員の仕事でした。家庭にいると子どもの言動が自分の成果のような錯覚に陥って苦しくなっていました。私個人の役割、仕事を得ることにしました。司法サービスでありながら、法律によって裁くのではなく、お互いが譲りあって話し合いによって解決することの手伝いをする仕事は、カウンセリングのようで、私自身の経験が少しでも役立てばとやりがいと役割を感じられるものでした。

≪両親の離婚・スピリチュアルと父の死≫
順番が少し前後しますが、高校生くらいの頃から、父が浮気をしていることを感じていました。大学生になると、母は祖父の介護で自宅を離れられなくなっていたのにもかかわらず、父は外泊が多くなり、祖父が亡くなると父はさらに帰宅しなくなり、私が就職していた頃は、さすがの母も気づいて半狂乱になっていました。面倒な離婚をする気はないけれど、母にはわずかの生活費しか渡さず、自分は遊ぶという勝手な父と、無力な母を見ていられなくなり、私は父方の親戚に相談をし、結果、親戚中から父を追い出すような形となりました。
数年調停をした後に、母は家を出て、離婚しました。その頃、母方の祖父母が亡くなり、母に祖父母の残した貯金が入ったことで離婚が実現しました。子どもの頃から祖父に、両親が離婚するであろうことを手紙で書いていたからか、母名義の貯金が残されていました。
そうして、私の結婚式の後から13年近く、父とは音信不通、絶縁状態となりました。

父に会うとまた心が乱され、家族も嫌な思いをすることにはうんざりでも、年老いていくであろう実の父親が一人でどんな生活しているのか、自分が追い出したことに罪悪感を抱くようになっていきます。新聞で身元不明男性死亡の記事を見つけては父ではないかと気になっていました。
その頃、出会ったのが、時任三郎さんの奥様、時任千佳さんです。前世やオーラが見えて、チャネリングができるという紹介で、訪ねました。
セッションでは、父と私は前世で夫婦だったこと、その時の縁の記憶が潜在意識にあるので、お互いにぶつかり合うのだということ、いまは無理に会わなくても時期がくれば会えるということ、毎日「お父さんありがとう、ごめんなさい、幸せでいてください」と思うこと、などを教えていただき、まったく科学的ではない話ですが、どの精神科の処方よりも私の心を穏やかにして、いままでのことが腑に落ちた気がしました。

そして、その後何年かして、本当に仲介してくれる方がいて、父との再会を果たします。妹と父とで食事をし、その次は6人の孫と私たち姉妹と父とで食事をしました。孫たちは初対面でした。
これから少しずつ親孝行ができるかと思った矢先、その2回の食事を最後に、父が透析中に倒れたという連絡を受けます。病院にかけつけると、父が一緒に暮らしている女性に会いました。十数年間、ほったらかしにしていた間、父の面倒を見てくれていたのだと知り、手を握りながら泣いた記憶があります。
母と離婚した父は、当時付き合っていた既婚者の女性の家で、その娘さんと3人で暮らすようになっていたそうです。途中、父の糖尿病が悪化して介護が大変になり、なんと、別居中だった女性の夫が戻り、女性と娘夫婦と赤ちゃんと、父とで暮らしていたのだそうです。父は「人間愛だよ」と笑っていましたが、なんともびっくりな話です。2週間後に、父は意識が戻ることなく亡くなり、私と妹で喪主をして葬儀を済ませました。
父が亡くなってから、父のことが少しずつ理解できるようになり、対話することも増えました。

≪発達障害≫
子ども達が小学生くらいになると、3歩歩くと忘れるほど忘れっぽいこと、脱いだ服を片付けられないこと、ランドセルがぐちゃぐちゃなこと、畳んだ洗濯物を自分の引出にしまえないことなど、日常生活にイライラすることが多くありました。躾としてももちろんですが、毎日、「ママに嫌がらせをされているような気持ちになるから、頼むから服はしまってほしい」と言っていた気がします。
上の娘たちが中学生になった頃、次女が学校で呼び出しを受けました。忘れ物が多いこと、提出物が提出されないこと、友達に対する不用意な発言、モノの扱いが乱暴なこと、体育の態度がふざけているなど、5人の先生から娘の注意を受けました。その日、どうしてよいかわからず泣きながら帰りました。一生懸命育ててきて、家庭での呼びかけもしてきたのに、なぜわが子だけこうなのか。その頃に、「ジャイアンとのび太」というわかりやすい形で子どもの発達障害の診断やカウンセリングをする女性医師(その方自身もその傾向にあり、4人の子どもを育てる母でした)にたどり着きます。
カウンセリングと検査のテストを受けて、発達障害の診断を受けました。能力の凸凹のことを表しますが、私も忘れ物が多く、そそっかしいことはよくあるので、発達障害と言われる凸凹の具合がわからず、私も検査を受けました。検査テストの内容は興味深いもので、小学校受験のテスト内容そのもののような気がしました。診断は普通であるというものでしたが、後天的に学習したり修正してきたのかもしれないとも感じました。
今は、薬を処方する医師もいるようですが、その医師には、親のカウンセリングをすすめられ、定期的に、娘への接し方や伝え方、サポートの仕方、親の苦しさなどを聞いていました。娘の場合は思春期で反抗期の中高生になっていたので、「放牧をしていればいい。失敗させることで、傷つくかもしれないけれど、自分で対処する方法を見つけていく。」と教えられていました。また、「どこの家庭や親族にも、あそこの叔父さんは変わっている、みたいな人がいるものですよ。寅さんもそうですよね。本当にいたら困ったものですが、時々帰ってくるから、みんなに愛されている。蜷川さんの娘もそんな風で、周りと同じにならなくていいと育てたからカメラマンの道が開けたんですよ。普通じゃないことは悲しいことではないし、家族にとってもそういう存在が身近にあることは、他人への寛容さが生まれるという恵みなのですよ。」という話に救われました。

次女が発達障害だとわかった時、父もそうだったと確信しました。時間に起きられず、自分の食べ物もコントロールできず、整理できないのに捨てられないこだわりから、紙類が山のようにあり、人に任せられないことで仕事にいつも追われていました。男性で、自営業者で、そうした失敗やうまくいかなさが、どれだけ苦しかったことか。あの暴君的な父は、そんな苛立ちがあっただろうと、思いました。私が父を理解できるために次女が生まれてきたのではないかとすら思えました。父のだらしなさを指摘しては叩かれていた母でしたが、不思議なもので、6人の孫の中で一番相性がよく仲が良いのは、次女でした。

その後、中学生の三女が不登校になる、大学生の長女が拒食症になる、恋愛依存になる、集団生活にストレスを感じるようになるなどの様子を見て、どの子にも、違った種類の凸凹とこだわりが強いのだとわかりました。夫も、アスペルガー的傾向が強いと仮定すると納得のいくことが多くなりました。
薬で、そうしたひらめきやこだわりを抑えることには疑問がありますが、自分の傾向を知る事は生きづらさや、環境の選び方の参考になると思っています。

そうはいっても、どうしようもない不安、パニック、イライラ、集中できないもどかしさなどを感じることがあります。そんな時に出会ったのが、植物療法ジェモセラピーでした。
以前、頓服で処方されていたデパスという精神安定剤がありましたが、そのデパスと同じように、気持ちがすーっと静まっていくハーブの力は素晴らしいものでした。実際にいまも、発達障害や繊細さん、パニック障害の方に愛用されることが多いものです。副作用もなく、依存性もなく、神経に届き、身体を整えてくれます。また、植物の種類によっては、心臓、血液、肝臓や腎臓、消化器、生殖器、皮膚などさまざまな問題を全体として捉えて、整えてくれます。
医師ではない私が、料理教室で、食事や生活方法から健康になることをお伝えしていましたが、生徒さんの不調に対して、ドクターみたいにハーブ薬を処方できたらと思っていた頃だったので、すぐに学び、カウンセリングや処方やセラピスト養成などの仕事も始めることにしました。

≪お茶の先生との別れ≫
茶道の稽古は、大学生から出産するまではほぼ休むことなく熱心に通っていました。おかげで、免状はすべて取り終えていました。子どもが生まれたからは、年に数回、お稽古にいく程度になってしまっていましたが、子ども達が中学生になる頃、再開していました。
お茶のお稽古というと厳しい先生が多いのかもしれませんが、私の恩師は本当にあたたかく、子どもが生まれる度にお祝いを持ってお見舞いに訪ねてくれました。座布団に寝かせて、少しお稽古させてもらったこともありました。そんな風に気軽にお稽古できたからこそ、続けられたと思っています。
先生は母の一回り上の年齢で、70代後半になられていました。茶道はテキストがあったり、ノートをとるようなものではないので、先生の教えを記録に残さなければ、先生が一生いてくれるわけではない、と感じ、ブログに記録しはじめました。
今から、7年前のある日、先生から電話がありました。「火曜日のお稽古のあと、〇〇さんのお月謝袋から5000円をとっていったでしょう。あの日はあなたしかいないの。誰にもいわないから、今度返して頂戴ね。」と。何度、お話を伺っても、お話をしても、5000円のゆくえがわからず、私がとったというのです。その話は、他のお弟子さんにも伝わりました。5000円私が出せば済むことなのかもしれないと思いましたが、年齢的な事もあり、痴呆の初期の症状ではないかと思いました。先生にはそうも言えず、お嬢さんにお電話で相談してみると、「まゆこさんがとったんじゃないですか。私はずっと母を見ているので、病気かどうかなど、私が一番わかります。」と取り付く島もありませんでした。
不思議なもので、警察を呼ぶこともできるのに警察が来たことは一度もなく、また、先生からいただいた道具がいくつかあるのでお返ししますと話すとそれはよく覚えていらして「それはあなたにあげたのだから返さなくていい。それじゃなくて、〇〇がないと言っているの」というのです。人の脳や認知は、愛情とか関わりの深さを記憶しているものなのだと感じました。
悲しいことでしたが、私が先生に会いにいくと先生は「なんでまゆこさんがそんなことするの?」と怒って悲しまれるので、もう会いにいけないとおもい、これまでの感謝の気持ちを長い手紙にして、お礼を包んで、お届けしたのが最後になりました。

その後、先生の物取り妄想はエスカレートして、自宅に何度も電話がかかってきました。「着物がない。帯がない。鍵もない。合鍵を作ったでしょう。道具を返しに来たでしょう。警察に行きますよ。ご主人にいいますよ。」などなど。一緒にお稽古していた妹や友人の家にも電話をしたようでした。ご病気だとわかっていても、大好きだった先生にそう言われることはつらいことでした。夫に相談しても、「一度先生を呼んで家中のものをみてもらったら?」などと頓珍漢なアドバイス。似たようなケースはあるだろうと考えて、警察に相談しました。そこで区役所の部署を教えられ、そこに相談をして、訪問していただくことにしました。先生の病気が心配だったからです。そして、時々、その担当者から先生の様子を伺いました。物取り妄想は家計をやりくりしている女性に多いこと、通常は一番近しい娘やお嫁さんに対象が向くこと、お嬢さんとの関係がよくなく甘えられる人がいなくて水上さんに甘えるように妄想対象になっているのだろうということなどをお聞きしました。
2年後くらいに、お嬢さんが少しずつ先生の問題に向き合われるようになって、いまは施設にいらっしゃると聞きました。先生はずっとお茶を教え続け、お嬢さんは寂しい思いをされていたのではないかと思います。私はとても可愛がっていただいていたので、お嬢さんの嫉妬の対象になっていたかもしれません。
大好きだった先生との別れがあり、どこでお稽古をつづけたらよいのか途方に暮れましたが、「まゆこさん、お茶教えなさい」と先生に言われている気がしました。
それで、少しずつ教え始めていくことにしました。
20代の頃に先生に勧められて参加した、京都家元主宰の短期講習会で、担当講師だった家元内弟子の先生とご縁があり、宗匠となられた先生のお稽古場でまた勉強をすることができるようになりました。新しい先生に繋がったことも、先生のお導きだったと感じています。

自分で教えるようになると、20代の頃の先生のことを思い出すことが増えてきました。親になっていったときに、亡くなった父や祖父や祖母を思い出したり、理解することができるようになったように、お茶を教え始めたことで、また先生との対話が増えたような気持ちです。
お茶を続けている限り、先生との時間が永遠にあるように感じています。先生が、「私の先生はね、」と昭和初期の話をしてくださったように、私も「私の先生はね、」と平成はじめのお稽古の話を生徒さんによくしています。先生から受け継いだ道具も大切に、生徒さんに伝え続けています。
茶道というのは、一期一会などと言われますが、本当に人の縁を繋ぐものだと感じています。


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