父の日がカレンダーから消えて
父の日が私のカレンダーから消えてから、今年で4年が経とうとしている。
4年前の雪の日、長く病気を患った末、最期は病院の病床で亡くなった。
闘病生活は過酷であった。
骨のように細くなった足は壊死し、不自由な内蔵故に人工肛門となり、身体の機能も徐々に失われていった。「母さん」とか細い声で祖母を呼び、血の海となった風呂場で倒れていることもあった。涙を流し嗚咽を上げながらも、気丈に振る舞おうとする祖母の姿も同時に思い出される。
本人の希望もあり、家で介護を続けながら療養を行なっていたが、何度も救急車を呼ぶこととなった。病院に連れて行こうと躍起になる私たちを押し除けて救急車を追い返し、枝のように細い体で廊下に這いつくばっていた。
私の祖父は、私にとって父親であった。
祖父は、幼くして実父と離別した私の父親代わりをしてくれたのだ。
離別後の生活も決して穏やかではなく、貧しいものであったが、彼は動けなくなる直前まで私たちのために働き続けた。
歯がゆいほど不器用で、不器用ゆえの無口で、切ないほど強い祖父だった。
贅沢をすることはなく、自分のために唯一買うのは1ダースのタバコと安いウイスキーだ。とうの昔に度が合わなくなっているだろう古臭いメガネは、20年以上前に作られたものである。仕事のカバン1つをとっても40年ほど使っているそうだ。学生だった私は、大したものは買えず、父の日に贈ることができたのは安物の靴だった。少しニヤリと笑って静かに受け取る祖父。しかし、弱った身体の老化は早く、贈った靴はすぐにブカブカになってしまった。
社会人になり、やっと祖父に恩返しができると思った先、祖父は逝ってしまったのだ。家族のためにすり減る祖父を長年見て育ち、いつか自身が代わって支えるのだと思っていたので、祖父の晩年、何もすることの出来ない私は、もどかしく、心がはち切れそうなほど苦しかった。
何もできないまま祖父は死に、私の父の日は今後も来ることは無くなった。
亡くなる直前も、亡くなってから暫くも、あまり記憶がない。心はバラバラで落ち着きなく、まるで毎日透明なガラスの上を歩かされているようだった。
今、目を閉じて思い出す。
手を繋いで歩いた夜の田舎道。
後部座席から見る祖父の大きな背中。
水色のソファに並びロードショーを観る週末。
酒に酔って一人静かに涙を流していた祖父。
あれから、父の日が来ると、言えなかった感謝の言葉が行く宛もなく心に渦巻き嗚咽となる。
仕事人間の祖父の錆びた営業車が目の前を走っているような気がして、自身の営業の帰りは独り声を上げて泣いた。
21時を過ぎると「ただいま」が聞こえてくるようで思わず目を上げてしまう。
いつまで経っても、あなたのように強くはなれません。じいちゃん。
私のお父さんは貴方だけです。
私の父の日は不完全燃焼のまま、カレンダーから予定は消えた。
数年経った今も、後悔の感情は消化できずにいる。天国があってくれと、不信心な私が強く願ったのはそれからである。この行く宛のない愛を、この叶わなかった父の日を。