「祖母の旅行」 ー 母の日のカーネーションはまだあげられない
昨日は“母の日”だった。
母には舞台のチケットをプレゼントし、母の母である祖母とは初めてのテレビ電話をした。
ここ1年、祖母は一気に元気がなくなった。もともと掃除や計算やガーデニングが大好きで、ズボラな私と血が繋がってるとは思えないほど、几帳面で勤勉で働き者だった。それが今は、祖母は90歳を越え、骨折を繰り返して長期の入院をしている。得意だったことのすべてを手放して、ベッドの上から動かなくなった。
ガーデニングは、鉢植えが重く動かせない。
小説は、目がかすんで字が読めない。
テレビ欄は目を皿にしてチェックしていたけれど、この1ヶ月は見ていないらしい。
「もうなーんにやる気がないよ。身体が動かない。長生きするもんじゃないねえ」
母がとなりで笑い飛ばす声が聞こえる。
わたしも笑い飛ばそうとしたものの、少し笑っただけで、飛んではいかなかった。
祖母は、
働き者で、頑固で、自立心が強かった。その祖母に育てられ、可愛がられて、わたしは生きてきた。未来が真っ白だった小さなわたしに、祖母は「私ができなかったこと、あんたはなんでもしなさいよ」と言ってくれた。
18歳で上京する時、空港に向かう車を駆け足で追いかけながら、窓の外から「たくさんの人と付き合うんだよ。でも避妊はちゃんとするんだよ!」と大きな声で言った祖母。(驚きすぎて「え、あ、はい」って言っちゃったよ)。
わたしが大学で演劇を学んでいるからと「あの子がどんなことをしてるのか知ろう」と『大人計画』の舞台映像を見ていた祖母。(うちの大学の先生は平田オリザさんだよ……あとは文学座の人だよ……全然違うよ……でも大人計画大好きだよ……)。
人生のほとんどを高知で過ごしている祖母。
祖父の転勤で隣県に少し住んだ以外には、ずっと家か畑で過ごしていた。四国から出たのは、戦時中に学徒勤労動員として工場で働いた時、それだけだと思う。
祖母の若い頃の話を聞くたび、茨木のり子さんの「わたしが一番きれいだったとき」という詩を思い出す。
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
「わたしが一番きれいだったとき」
茨木のり子 ※一部抜粋
祖母の言葉に甘え、わたしは大学で学びたいことを学び、世界中の行きたいところへ行った。テレビを見ては「どこの国の◯◯って街はきれいなんだろう?行ってみたいねえ」とうっとりすることが好きな祖母に、「わたしだけ行ってごめんなさい」という申し訳なさとともに、いろんなお土産を持ち帰った。
足腰の弱った祖母は、飛行機にも新幹線にも乗れない。すこしでもいろんな空気を届けたかった。祖母は「行きたいところは行けるときにどんどん行くんだよ」と言いながら、いろんなお土産を喜んでくれた。
そんな祖母が、唯一語る旅行の思い出がある。
祖父の出張について、隣県に行った時のことだ。ものすごく几帳面で厳しかった祖父は、祖母を連れてでかけることなんて滅多になかったらしい。でもその時は仕事の都合で、祖母も同行した。そして祖父が職場で打ち合せをしている間、祖母は見知らぬ海岸の砂浜を、綺麗な貝殻を探しながら散歩したそうだ。
ほんの1〜2時間のことだったろう。それほど綺麗な海でもなかったかもしれない。そこで祖母は、祖父が戻ってくるまでにいくつかのお気に入りの貝殻をみつけたらしい。それを持ち帰って瓶に入れ、窓辺に飾ったそうだ。
祖母は今でも、ものすごく嬉しそうにその話をする。
「良かったなあ。わたしの唯一の旅行」
わたしには、何十ヶ国を訪れようが、そんなに目を輝かせて大切に語れる唯一の場所はない。祖母のくれたその豊かさを噛み締めて、わたしは「いいねえ、海!」と笑う。
昨日の『母の日』にテレビ電話で話した祖母は、わたしが今までみたなかで一番元気がない様子だった。眠かったのかもしれない。食後だったのかも。リハビリ後で疲れていたのかも。
でも、ついこの3月に会った時には、たまたま週刊誌で市川染五郎さんの写真を見かけて「素敵ねえ!一目惚れしたわ〜!」と少女のように目を輝かせていたじゃないか。“推し”は人生を豊かにする、って、その時に思ったよ!それがこの2ヶ月で、なんて元気がなくなってしまったの?
『母の日』は、アメリカの女性が亡くなった母親の追悼のためのカーネーションを贈ったことが始まりと言われているということを、今日知った。わたしは祖母のためには、まだカーネーションを用意したくないなと思った。
かわりにamazonで、市川染五郎さんの特集雑誌をポチる。
母の日のカーネーションは、まだあげられない。
“推し”の写真を見て、すこしでも潤ってください。
(母にはカーネーションはあげるけどね!元気だから!)