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【取材記事】母の背中を追って看護師になって、気がついたらアフリカにいた女性のはなし

青年海外協力隊と聞いて、あなたはどんな姿をイメージするだろうか?

国際協力機構(通称JICA)が50年前に始めたもので、そのうちのひとつが開発途上国で2年間自分の経験や知識を活かして、その国や地域の問題解決に取り組むプログラムである。

テレビでよくみるアジアやアフリカの途上国での日本人の姿。実際に現地で活動している人たちはどんな人生を送り、どうやってその大陸までたどり着いたのだろうか。

2023年からJICA海外協力隊(以降協力隊)でボツワナで医療活動をしているMiharuさん。
日本で7年間看護師として働き、この大陸へやってきた。

画面越しからも、全てを包んでくれそうな姉御肌を感じる彼女は、どんな人生を歩んできて、これからどう生きていくのだろうか。

突き詰めて進み続ける女性の人生を紐解いていこう。


母の影響で看護師になり、7年間命と向き合った

「わたしは2023年の春から、コミュニティ開発という分野で青年海外協力隊員として、ボツワナで生活しています。大学を卒業して2年間は手術室で、そのあと5年間救急センターで働き、1年ほどのバンクーバー留学を経て、いまこの国にいます。」

ーー看護師として7年!?2年で商社を辞めてアメリカに避難してきたわたしからすると、とてつもない長さですね。看護師を目指したきっかけはなんですか?

「子どものころ、黒柳徹子さんが書いた本を読んで、アジアやアフリカの国で困ってる人を助けることに興味を持ったんです。やりがいがありそうだなって。そんな世界へ漠然と憧れていたのと、看護師の母の影響で、わたしも同じ道を目指すようになったんです。

看護学部への進学を控えていたとき、東日本大震災が起こりました。千葉県に住んでいて、東北ほどの大きな被害はありませんでしたが、翌日に控えていた卒業式も、大学の入学式も中止になって、断水や停電のある生活をして、そのとき初めて日本が災害大国だということを強く実感したんです。そこから災害看護や救急医療に興味を持つようになりました。」

ーーなりたかった看護師という仕事は、実際働いてみてギャップや何か感じたものはありましたか?

「はじめ2年間は手術室で、そのあと救命センターで働きました。医療職で海外で働いてみたいという憧れはあったんですが、まずは日本で経験を積もうと思ったんです。

社会人3年目のときに、自分の生き方をより考えるようになり、海外で活動できる方法のひとつとして協力隊を知って受験。南米のボリビアに看護師としての派遣が決まりました。

しかし、コロナが始まり患者さんが増え続け、今あるこの現状をどうすれば打破できるのかを考え、不安に駆られていたとき、協力隊の派遣中止が発表され、看護師としてそのまま働くことにしたんです。」

ーーコロナの影響で、医療関係の方は想像できないほど影響を受けたと思うんですが、今までとはなにか変化がありましたか?

「コロナで一気に仕事が忙しくなりましたね。救命は自力で行ける一次救急から、事故や急病など救急車でしか入れない生死に関わる三次救急まで分かれているんです。わたしの職場は三次救急で、生死に関わることがたくさんありました。

救命時代ののイメージ画像

コロナ当初は全然救えなくて、少しずつ治療や看護をできるようになったものの、患者さんの数が多すぎて記憶にないほど大変でした。いままでは同期や友人と飲んでストレスを発散していましたがそれもできなくなり、空き時間が増えたので英語を勉強するようになったんです。

そしたら英語を学ぶのがどんどん楽しくなって、いつ終わるかわからないコロナ生活や、毎日仕事を辞めようと誓っていた日々の、些細な息抜きになったんです。」

ーそんな状況でも働き続けられたモチベーションはいったいなんだったんですか?

「わたしの病院は救命だけで40人以上の方が入院できるかなり大きな病院で、毎日誰かが亡くなるという環境でした。

ひっきりなしに命の危険がある患者さんが運ばれて、亡くなったり、重い後遺症が残る人がたくさんいます。そんな中でも、社会復帰まで回復できた人もいたんです。

それが嬉しくて嬉しくて。新しい患者さんに関わったとき、『いま目の前のこの患者さんも、元の生活に戻れるかもしれない。』と思うと自然とまた頑張れていました。

そんなとき、少しずつ救える命が増えてきた傍ら、コロナ禍終わりの見えない生活に疲れを感じるようになったんです。

もともと海外旅行が好きで、国際協力に憧れる自分がいて、英語を学び始めるともっと知りたいって欲が生まれました。

一度医療から離れたい。合わなかったら戻ってこればいい。そんな気持ちで仕事を辞めて、バンクーバーへの留学することを決めました。」

コロナ禍に最前線で働き続けた末に、カナダにたどり着いた

ーすごくタフで、成長するために進み続けたい性格なのかなという印象なのですが、バンクーバーはどんな生活を送られていたんですか?

「バンクーバーでは学生ビザで語学学校と、カレッジに入学する前の学校に通っていました。英語が勉強したくて来たものの、コロナ明けに国境が早く開いた影響か日本語が街中に飛び交っていて、思いの外、学校にも日本人がたくさんいたんです。

はじめは日本人とも仲良くしていたんですが、どうしても日本語を話してしまって、なんのために来たんだろうって思うように。

1年半はカナダにいるつもりだったものの、任期を縮めて協力隊でアフリカに行くことにしたので、残りの生活を充実させるためにも日本人がいないシェアハウスへの入居を決めました。

カナダ人オーナーと、オランダ系、フランス系など5人での生活が始まると、ディスカッションすることが多くて「あなたはどう思う?」ってよく聞かれるようになりました。

最初は聞き取るので必死で、意見なんて全然言えなかったけど、週末にみんなで出かけるうちに自分の気持ちをしっかり伝えられるようになりました。」

ーーカナダで生活しながら、再び協力隊に応募されたのはどんな留学があったんですか?

「ずっと消化不良として心に残っていたんです。カナダに来てしばらくして募集が再開されて、やっぱり海外で医療や支援活動がしたいという願いに嘘はつけませんでした。

コロナの関係で医療職や病院への派遣が厳しいのか、医療関係の枠が全然なくて、、、保健師の資格も持っているので、ソーシャルワーカーやコミュニティ開発などそれを活かせる枠を探すとボツワナだったんです。

英語圏だし、カナダに留学での語学が活かせるといいなと思い応募して、無事に派遣が決まりました。2022年の12月に帰国して、翌月から訓練を受けて2023年の4月からボツワナに派遣されています。」

ついに始まったアフリカ生活。看護師時代に鍛え上げられた適応力の高さがここで生きた

ーーあこがれの「海外での医療に携わる生活」が始まって、1年半以上経ちましたが、ボツワナではどんな活動をされているんですか?

「わたしは地元の団体でボランティアをしていて、学校や集会所、人が集まる場所を訪れて健康指導が主な活動内容です。

ボツワナのHIV感染率は5人に1人くらいで、あまりみんなエイズの話はしたがらないので、ふわっと講義内に入れたり、性感染症、ライフスキルについて考える機会を作っています。もっと掘り下げると、学校だと好きな人と恋人はどう違うのか、生徒たちとディスカッションやロールプレイをしたりしています。

ボツワナって日本とは全然働き方が違っていて、基本みんな働かないんですよ。Lazyって言葉が似合うくらい。

働かなくても困らないって言った方がいいのかな?国の体制が整っているので、教育や医療は安いし、交通機関もあまりお金がかからないので、頑張って働く理由がないんですよね。

学校や集会所などを同僚と回るものの、8時ごろに集合して14時とか、早ければ12時には解散。フリー時間!みたいなことが普通にあります。

なのでそのまま首都に買い物に行ったり、帰って家事したり、動画を見てくつろいだり。結構のんびり過ごしてますね。」

ーーそんなに終わるのが早いんですね。勤務時間や仕事への取り組みのギャップもそうだと思うんですが、ボツワナで生活して驚いたことや大変だったことはありますか?

「派遣前に聞いていた活動内容との違いがめちゃくちゃありました。笑

わたしの生活費はJICAからもらっているので、活動先の金銭負担はないんですよ。だから、ボランティアに来て欲しい。って要望を出してJICAが快諾して派遣を決めたものの、行ってみると内容が違う。実はこれ結構あるあるなんです。

要請書には「職員のひとりとして学校や集会所で授業をして欲しい。マンパワーで働いて欲しい」と書いてあったものの、いざ来ると上の人には「ボランティアにそこまではさせられない」って言われたんです。

制限が多い中ですが、同僚たちはみんな優しいので、上から言われたルールを超えてこっそりみんな講義に関わらせてくれています。

活動風景

それと、団体は関わらずに自分で開拓して集会所は、メインで動いています。同僚や他の協力隊員に相談しながら新しい集会所を見つけたんですが、当初は「自分で見つける」なんて書いていなかったので、何をどうしたらいいかわからず戸惑いました。

協力隊派遣は先生だったら学校、医療関係だったら病院。って活動場所が決まっているパターンもありますが、コミュニティ開発は自分で出歩いて見つける必要があるので、すでに環境が整っている同期を見ると羨ましくなることがありました。」

ーーそんなに違うんですか。そういうギャップはどうやって埋められたんですか?

「救命で働いていたからか、たぶん適応する力は高めだと思うんです。「なんでわたしを呼んだの?」って聞いたら「いてくれるだけで意味がある」ってすごいふわふわしたことを言われて。

日本にいたころに思い描いた活動はできていないけど、時間をかけて居場所を作って、色んなアプローチで少しだけでも健康について考えるきっかけを作れているといいな。って思うようにしています。

あと、この国って内陸国で水に限りがあるんです。乾季に1週間断水しちゃって、真夏に水なしは本当にしんどかったけど、次起こったらいいホテルに泊まったりして逆に楽しんでやろうって思うようになりました。

2年って決まった期間で、一生住むことがないだろう国。帰国するって決まっているからこそ、この精神で過ごせているんだと思います。」

ーーアフリカでの1年半は、みはるさんにとってどんな印象を与えましたか?

「来る前はアフリカに対してあまりイメージが沸かなくて、エイズの感染率が高い印象が強かったんです。でも実際に来てみると映画館などの娯楽があって、盗みもなく普通に生活できて、想像以上にちゃんと生活できるんだな。って思いました。

街の様子

JICAという大きな後ろ盾があるので、生活には困らないし、たとえば移動手段だったり、訪問できる国が限られていたり、制約はいろいろありますが、なにかあっても大丈夫だっていう安心感のなかで活動できていることも影響していると思います。

それと、途上国で働くという夢を叶えて、これからもやり続けたいのか疑問が生まれました。家族は協力隊をすることを応援してくれていたんですが、それ以上に心配もかけていたと思うんです。大切な人たちを不安にさせてまでしたいことなのか。

それを上回る熱意や情熱があって、移住して人のために生きたいかと言われると、疑問を持つようになりました。」

国際支援をしたいという夢を叶えて、これから思い描く世界とは

ーーあと半年ほどで本帰国をされますが、帰国後の未来はどんなプランを持たれていますか?

「しばらくは日本で家族や友人と過ごして、しっかりチャージできたらバンクーバーでも看護師として働きたいと思っています。かなり大変みたいなんですが、免許の書き換えに挑戦するつもりです。」

ーー新しい挑戦をされるんですね。そこへの不安はあるのでしょうか?

「わたしは石橋を叩くタイプなので、バンクーバーにいた頃から将来に対する漠然とした不安はありました。でも、考えてもわからないことには諦めが早かったり、人を変えるより自分を変える方が早いと思うタイプなので、散々悩んでから、まずはやってみよう。と思えるようになりました。

永住権を取れるのか、異国での生活がうまくいくのか、どうなるかわからないことはたくさんあります。

ただ上手くいかなかったら帰国して、日本で看護師としてまた働こうと思っているので、とにかくやってみる精神ですね。

まずは残り5ヶ月、ボツワナでの生活を存分に満喫して、今していることを継続して、悔いなく任期を終えたいと思っています。」

ーー編集後記事ーー居場所を作って挑戦し続ける姿勢を分けてもらって

協力隊の方へのインタビューはMiharuさんで5人目になりました。
日本からも、アメリカからも遠く離れた、あもかの憧れの大陸で活動し続けるみなさんの姿に力を分けてもらって数ヶ月。

アフリカに憧れながらも、アメリカを行き来する可能性があるあもかにとって、Miharuさんが語ってくれたカナダでの挑戦は「かっこいい」と思うのと同時に、「国際支援の夢を実際に叶えたから、新しい夢が生まれたんだな」と感じる自分がいました。

自分の目で見て、生きてみてわかる世界がある。憧れが膨らみ続けるアフリカの世界へ、早く行ってしまおう。と強く思いました。

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