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「家族」に絶望した話(1)
更新を滞っていたこの2年で、わたしの生活には(更なる)大きな変化があった。
感情を整理しきれないまま、毎日に忙殺されている。
しかし、ここ数年の出来事から、わたしは「家族」に絶望していることに気が付いて、久しぶりにnoteを開くことにした。
「家族」と「家庭」の違いって?
最初に言葉の違いを検索してみたけれど、言葉の定義として使い分けが難しい。少し違う使い方をする文章もあるけれど、悪しからず。
わたしにとって、「家族」とは?
わたしにとっての「家族」は、過去と未来。
イマのワタシには 家族 と呼べる存在は無い。手放してきたモノ のひとつだ。
自分が育った 家族 からは、自分の意志で離れた。結婚をして 家庭 を築きたかったけれど それもできなかった。過去も未来も手放したのだ。
そしてイマ、これから 家族を持つこと は全く想像できていない。恋はしたいけれど 恋人を作ること は躊躇している。誰かと一歩踏み込んだ関係 を持つ勇気が無い。しかし、イマのワタシは 家族 に憧れ、家族 に執着しているとも感じる。
「家族」の概念には、色々なカタチがあると思う。
わたしは、血縁の有無 や 法的な関係 だけがすべてではなく、また同じ家に住んでいなくても、「家族」になれるのだと思う。
「家族」と思える人はどんな相手なのか。どんな関係性の人だと「家族」と呼べる存在 になれるのか、この話を通して 自分なりの答えを持ちたい と思う。 それは、イマのワタシがまた次の未来を描けるようになるために、必要なことな気がしているから。
さてさて。自分なりの答えを求める前に。
まずはタイトルにも書いた通り、「家族」に絶望した話を綴ってみたい。
そのためには前提として、自分の家族のこと、かつての結婚生活の話、いまの仕事の話、多くの出来事を文字にして整理していく必要がある。 この3つのテーマに分けて #キモチのキロク をしていきたいと思う。
(1)生まれ育った「家族」
自己紹介でも少し触れたけれど、わたしは 両親と 姉弟の5人家族。
両親は共働きだったけれど、祖父母たちが近くに住んでいたので 祖父母の愛情や影響もたっぷり受けながら育った。
隣の芝生は青く見える という通り、ヨソの家族の問題は分からないけれど、我が家は「機能不全家族」だったのだろうか?我々 姉弟は「愛着障害」を持った人間なのだろうか?
いずれにせよ、変な人たち、変わった家族だとはよく言われる。
わたし自身も「変わっている」と言われることはよくあるが、嬉しく感じることは少ない。良い意味より「外れている」という否定的な意味で言われている気がするから。
愛情の受け取り方は人それぞれだった
高校生くらいの時に母が言っていた。言葉通り、同じ家族の中で育ってもわたしと姉弟では ひねくれ方が違う。そう、3人ともひねくれていると思う。中でもわたしは突飛的なのかもしれない。((ここでは綴りたくないけれど、歪んだ自分を思い返すと 我ながら並外れて ひねくれている。))
わたしは、嫌なことがあるとすぐに逃げ出す。子どもの頃も よく家出をしていた。補導されないところに隠れて、補導される前に帰っていた。両親が探しに来て 連れて帰られたという記憶はない。
弟も家出をして非行に走ったことがあった。その時も 両親は迎えに行くことはなかった。弟は未成年だったけれど、彼らは弟と関わらなかった。放棄したのだ。他の大人が 彼のサポートをしていた。
姉に関しては、まだわたしは幼かったから分からなかったけれど、わたしの見えないところで大きな確執を育てていたと思う。
両親にとって、都合の悪いことは「臭い物に蓋をする」「見て見ぬふり」が常 だった。そして自分たちにとって 害 があると感じると、自分の子どもでも徹底的に 攻撃 をしてくるのだ。子どもたちは「アイテム」だったのだとも思う。着飾るブランド品や 車と同じ、ステータスの一部だ。
そんな否定的な印象 を持ちつつも、わたしは愛されて育った 実感はある。彼らなりに、彼らの基準の中で 深く愛してくれていたと分かる。その基準が歪なものだと理解するのは、大人になってからだった。
大人になったワタシ
田舎育ちに加え、長い年月を特定の分野(習い事中心の生活)に費やしていたので、世界が広く大きいことを知るのは 結婚した元配偶者に出会ってからだった。彼と知り合ってから、わたしは大きな自分になることができた。
学生時代までのわたしは、家庭環境や生活水準が近しい人たちとしか出会うことがなかった。同じ地域に住み、同じ分野を学ぶ。東京の大学に通っても 近しい人間たちが集まる場所だった。
そんな時に知り合った彼が見せてくれた世界は、小さな世界しか知らなかったわたしには 驚くほど広く新しく、キラキラしたものだった。親に敷かれたレールの上を歩いていたわたしが、自分の意思を持って、自分で考え自分で物事を 選ぶようになったのだ。
そう、つまり 親の思い通りに動かない ワタシ になったのだ。両親にとって、自分たちの期待を詰め込んだ真面目な娘が 普遍的な(堕落した)人間に変わってしまったのだった。
何がきっかけだったか 思い出せないけれど、数年の間、疎遠になったり親密になったりを繰り返していた。
しかしその彼との結婚が決まってからは、両親との距離が急激に近くなった。「独り立ちした娘が、良い家に嫁ぐ」ということに 歓喜した。つまり、わたしの(結婚相手や相手の家柄も含めた)結婚は、彼らのステータスに彩りを持たせることができたのだ。
純粋にわたしが幸せになることを 喜んでくれていたのだろうか…? 懐疑的ないまはそんな風に思ってしまう。
言葉は武器になる
わたしは 自分のことを話すこと は 得意だけれど、人に 質問すること が 極めて苦手だ。
なぜならば、恐れているのだ。相手にとって、どこに 言葉の地雷 があるか分からない。地雷は時々によっても変わるとも思う。何より、言葉は武器になる。本当にそう感じている。
誰しも 相手の何気ないひと言 を引きずってしまうことがあると思う。わたしは 今もなお、母や父の言葉たち に囚われている。
『 やっと一番になれたね 』
結婚の直前、お酒を飲んでいる席での 何気ないひと言だった。その時は意味も分からず、聞き流れていた言葉だった。しかし、離婚を決めた頃 じわじわと思い出して、いつの日からか ズシリと響き始めた。
わたしはいつも 彼らの 一番 じゃなかった。だからこそ、わたしは優先されることが多かったとも 思う。例えば、姉弟が習い事中心の生活の中で、わたしの付き添いが 最も優先された。姉や弟が 我慢して得たこと(おさがりじゃなくて自転車を買ってもらうとか、眼鏡じゃなくてコンタクトレンズにするとか、携帯電話を買ってもらうとか)を 何気なしに得ることができた。
それは 中間子の役得 だったと思う。しかし、わたしは第一子でも 長男でもなかったから、おもちゃ屋さんに行っても おもちゃは1個、弟は2個だったりした。
離婚を決めたとき、結婚したのは「彼の一番になりたかった」と 拘っていたことにも気付いた。
なれなかったこそ、いまは 誰かの一番 になることを恐れ、親密な関係になることを恐れているのだと思う。
『 次に結婚するときは勝手にして、紹介もしなくて良い 』
辛辣な言葉だった。離婚問題で家族関係がこじれていたときに、母から受けた言葉の数々は わたしを深い悲しみへと 導いた。
そう、次の記事で綴りたいと思うのだけれど、3年前にわたしは離婚をした。24歳で大好きなひとと結婚したけれど、32歳の時に婚姻関係を解消した。11年間 苦楽を共にしたが、幸せな夫婦生活は短かった。
大恋愛の末に結婚したわたしたちが離婚を決めたのは大きな問題があったからだ。けれど 夫婦の悩みは夫婦の問題だ、と思い両親に相談したことはなかった。問題を解決できなくなって 離婚という選択をした。
両親にとっては、わたしたち夫婦が 幸せな結婚生活を送っている と疑いもしなかった。幸せな娘夫婦を祝福し、応援・サポートしてくれていた(していることを両親が楽しんでいた)のだ。
そんなわたしが離婚したいと騒ぎ立てたことは、彼らにとっては正しくも 寝耳に水 だったのだ。
そこから、彼らは自分たちが思い描いた娘・娘婿じゃないことに腹を立てた。わたし、元配偶者・義両親が、「家族」から「自分たちの敵」へと変わり、4者への攻撃が始まったのだ。
被害者ではなく、加害者になった
わたしは自分が築こうとした「家族」、つまり結婚相手との未来 が崩れ去ったと分かり、深く傷付いていた。しかし、その出来事は 両親のことも 深く傷付けた、のだった。ここで優先されたのは、両親の感情。わたしはなぜか 悲劇の主役 にはなれなかったのだ。これはわたしから見える世界における話だけれど。離婚問題が始まり、家族の中で わたしは 被害者ではなく、加害者だったのだ。
わたしが望んだのは、家族からの無償の愛だった。
もちろん、わたしが選択して失敗した結婚だった。しかし、わたし自身、結婚も離婚も「失敗と捉えていない」ことが、両親にとっては気に食わないことだった。
何を隠そう、わたしは無駄にポジティブだ。全てにおいて、自分が持っている選択肢の中から 自分で決断してきたことだったから、選択を後悔することもなく、起こった結果を受け容れていた。
そんな感情の表れが わたしが発する言葉の端々から、父と母に伝わっていたと思う。わたしの言葉たちが彼らの気持ちを逆撫でしていたのだ。
わたしなりの楽観的な考え方の軸には、置かれた状況の中で最大限にHAPPYになれる状態を求めることがある。わたしの「ポジティブさ」を 両親は「開き直った態度」と受け取っていたと思う。そんなわたしの性格だからこそ 乗り越えられた結婚生活だったが、両親との関係が拗れたのも ポジティブすぎることが要因のひとつだ。
尤も、結婚生活において わたしが彼に裏切られたことは事実だ。離婚することを 家族にも納得して欲しかった。結果的にそれらの望みはわたしの エゴ だったのだけれど、家族には わたしの味方であって欲しかったのだ。
わたしは彼に裏切られ、傷付き、哀しみが拭えず、苦しみもがいていた。両親にも その事実を受け容れて欲しかった、そして 彼らの あたたかな温もりで包まれることをわたしは望んでいたのだった。
その頃の気持ちを思い出しながら記事を書いていると、今でも記憶に新しく、負の感情が思い起こされていく。
最初から最後まで、両親の中で 夫婦問題はわたしの落ち度であり、離婚騒動で家族を傷付けた わたしが悪者だった。
『あなたの(結婚生活の)最大の失敗は家族を巻き込んだこと、次に結婚するときは、相手も紹介しなくて良いから、ママたちに関わらないで欲しい。自分が幸せだと思えばそれでいいんじゃない。関わらなくて良いから。』
一言一句、忘れられない。文字にしながら 再び 落ち込んだ。
離婚届を出す前夜に言われた言葉。わたしが家族に絶望した瞬間だった。本当に「言葉は武器になる」のだ。
彼らにとってわたしが悪者だという面は分かる。しかし、母の立場を想像して、娘にこの言葉を投げかける 心境を まだ 理解することはできない。寄り添って欲しいときに、父と母から与えられた 攻撃的な言葉たちを まだ 忘れることができない。
わたしは家族に恕されることを望んだだけだった。いまもその気持ちは変わらない。
いつか父と母を赦し、母と父に赦されるときが来るのだろうか。
そして、「イマのワタシ」が作られた。
つらつらと述べたけれど、これがわたしが生まれ育った家族との話。
結婚経験があるので、苗字も変わり元配偶者家族の一員になったこともあった。生まれ育った家族(両親と姉弟)、そして結婚・離婚経験が「イマのワタシ」という人格を育ててくれた。
無駄にポジティブで極めて自己肯定感の高いワタシなので、自分のことが嫌いじゃない。数々の選択で「自分」が作られてきて、タラレバもなく後悔もない。数々の選択はその時々の「自分」が最大限に悩み考え、等身大の「ワタシ」が選んで決めたものだ。良い人間かどうか分からないけれど、ワタシはワタシなのだ。
離婚経験で生じた両親との亀裂はわたしの中で大きく成長した。その後、自分の弱さから逃げるために両親から離れた。同時に姉弟からも離れた。
離れたことで、痛みが消えることはないけれど、痛みが増えることはない。「イママデのワタシ」は過去に置いてきた。今は「イマのワタシ」と共に毎日を生きている。
元配偶者との関係、家族との関係の中で、傷付くことがたくさんあった。傷付くとは自分の問題?で述べた通り、わたしは「わたしを守れるのはわたしだけ」と強くを思っている。もちろん、「イマのワタシ」は「イママデのワタシ」を抱えて生きていくけれど、自分の家族は自らの意思で手放すことができたことは、後悔のない選択だった。自分を守ることができた。
そんなイマ、ワタシは毎日を楽しく生きている。手放したことで闇を抱えたことも事実だ。闇に吸い込まれそうな日もあるし、闇を手放すために自分の弱さに向き合わなければならない日が来るかもしれない。
後悔はないけれど、選択した自分を正当化するためにも「良い選択だった」と思うことが必要だ。
そう思いながら、イマのワタシは今日も楽しく自分だけのために生きている。そして、明日も同じ。イマのワタシを楽しみながら生きるのだ。イマを綴るのはまた今度。
あとがき
やっとやっと、1つ目の記事を書き終えた。
子どもの頃から自分の気持ちを言語化するのは不得手。何度も何度も修正加筆をしていたら、書き始めからしばらく経ってしまった。
文章を書くときは、珈琲を飲みながらか、お酒を飲みながら書いている。編集のたびに読み返していたら、文章の癖にも気付いた。同じことを2回言うことが多い。気にしてみたら、会話でも大事なことは2回言っている。文章は短いほうが読みやすいと知っている。書き連ねるごとに、上手になることを期待して、2つ目の記事を完成させたいと思う。
「誰かに読んでほしい、自分を知ってほしい」という気持ちはあれど、誰に向けて書いているのかは分からない。自分の感情や言葉に対する批判は欲していない。
けれど、言語化することで自分の気持ちを知ることができている。それはいい感じ。
結婚生活で「人は変わらないけれど、人のキモチは変わる」と学んだ。
そして、その時々の感情は時間が経つとどんどん忘れていく。キモチのキロクをしておきたい。
自分と近しい人に親しみを覚えるので、感情や境遇が似ている人とお話してみたい気持ちはある。いつかそんな機会を設けられると良いな、とふんわり思いながら。
2025/02/01 もも