深夜2時、夢を殺した。

5歳の私は、たしかスチュワーデスになりたかった。 
なんでなりたかったのかは、ちっとも覚えていない。空を飛びたかったのか?遠くに行きたかったのか?
でも間違いなく言えることが、ひとつだけある。
あの時の私は何者にでもなれると思っていた。
絵を描けば賞を取れた。走るのも速かった。周りの子より、難しい文字を知っていた。
望みさえすれば、自分は何だってできると、根拠もなく信じていた。

ーー小学校3年生のとき、親が離婚をした。
しあわせな家庭だと思っていたものが、見せかけだったと知った夜。私は生まれてはじめて、声をあげずに泣いた。

当時、親しかった友だちのお母さんは、離婚事情を子どもに伝えることを躊躇して「もう、ももかちゃんと遊んじゃダメ」とだけ告げた、らしい。まぁ、今くらい大きくなっちゃえば、面倒なのもわかるけれど。

ある日その親子に道で挨拶をしたら、返事もせずに親子で逃げていった。訳もわからず取り残された私はまた、声をあげずに泣いた。なんだか世界に、取り残された気分だった。

それから、誰かと面と向かってしゃべるのがちょっとだけ怖くなって、誰が離れていってもいいように、本音を隠すようになった。代わりに、自分の伝えたいことや想いを作詞や小説で表現するようになった。

当時は自分でサイトを作るのが流行っていて。私も流行にのり、簡易なサイトを作って小説を公開した。
ありがたいことに、多くの人が読んで感想をくれた。建前ばかりでやりすごして日々を過ごす私の「本当」が詰まった言葉を、愛してくれる人がいる。それが私の自信であり、存在意義みたいなものだった。

ーー書くことで生きていきたい
強く思うようになったのは、たしか高校生のとき。とある大学のとある学科を目指して、誰にも言わずに結構死ぬ気で勉強していた。
まぁその目標も、詐欺にあって借金を背負ったり、持病で家から一切出られなくなって薬漬けになったりと、なんやかんやがあって叶わなかったけれど。全部諦めたあとも「物を書いて生きたい」という願いだけはどうしても捨てられなかった。それがないと私じゃない、とまで思っていた。「何にでもなれる」ではない。全てを捨てたとしても、書くことで生きたかった。

就活の際、その熱意を汲んだ出版社が私を雇ってくれた。ただし、月給15万。保険や年金はそこから全部自分で払う。移動交通費もすべて立て替え。先輩は話しかけてもシカト。
名刺はもらえず、退職者の名刺にテプラで自分の名前を印刷したものを持って、ひとりで飛び込み営業にいった。しぬほどつらい日々だったけど、物を書くことには近づけた気がした。
豪雪の日、終電すら間に合わず、駅のロータリーでタクシーを待ちながら泣いた。頭に積もった雪はなかなか溶けなくて。でもタクシーのなかでも仕事をしていた。それしかないと、思っていたから。

結局、激務に身体が耐えられなくて辞めたあと、とりあえず「一度普通に働くか」って一般企業に入った。
事務仕事もきらいではなかったけれど、やっぱり何かを書きたいという思いを、伝えたいという願いを、どーーーしても、捨てきれなかった。ずっと馬鹿みたいにあたためていた。でもそれを、身近な誰かに見せる勇気はなかった。

ある日、なんの気なしに応募したポエムコンテストで、賞金をもらった。そのまま仕事を辞めた。やっぱり書くことで生きていきたい、っておもったから。

その後、縁あって求人の世界にやってきた。
毎日いろんな企業の求人を書いて、その企業の魅力を自分の言葉で伝える。激務ではあったけれど、ちゃんと自分の名前が最初から書かれた名刺はもらえたし、自身の文章を必要として、認めてくれる人たちと出逢った。

「書きたいんです、それで生きたいんです」と、言葉にした。
そしたらありがたいことに、サイトコンテンツの企画も任せてもらった。取材をして、記事を書いて。まさに私は、しつこいくらい願い続けた夢に、そこで触れることができた。

もっと実績を上げ、クリエイターとして評価されたい。そう望み続け、努力するつもりでいた。
だってそれが私のしがみついてきた「夢」だったから。そのために捨ててきたものを、諦めて来たものを、無駄だと思いたくなかったから。

でもそんな私に
「書くことより向いてることがあるよ。考えたほうがいいよ」と上司が言った。私はわかりやすく腹を立てた。悔しいと思った。
なにくそ、認められるためにはもっと頑張らなきゃいけないのか。とりあえず、キャッチコピーの本をひたすら読んだ。「夢を諦めた3つの理由」みたいに、キャッチには具体的数字を入れろとか。小手先のテクニックが羅列されていて、ふんふんと頷きながら頭にたたき込んだ。

当時、同じ部署に、要領よく仕事を進められずによく怒られる後輩がいた。
私は彼女にあった仕事のやり方を模索し、ほかの人が匙を投げたのを知りながらも、どーにかすれば才能を発揮してくれるんじゃないかって思っていた。泣いてる彼女をとりあえず抱きしめてたこともあった。

そんな彼女があるとき、1本の原稿を書きあげた。時間は相当かかっていたし、その子には他の仕事は与えていなかった。

言い訳をしようと思えば、いくらでもできた。
その子の分の仕事もしていたから、私は忙しかった。ひとつひとつの原稿を大切に書く余裕が私にはなかった。

でも、後輩の原稿を見た瞬間。
私は「負けた」と思った。
重ねてきた努力も、積み重ねてきた経験も、小手先のテクニックも。
全部がかなわないくらいに、その子の原稿は人の心を動かした。

部署の全員がその子の原稿を褒めた。
悔しかった。けれど、私が今まで仕上げてきた何百という原稿のどれよりも、その原稿は素晴らしかった。

涙すら、出なかった。
家に帰って、キャッチコピーの本を開いた。でもすぐに閉じた。たとえ何時間かけたって、あの子の原稿を超えるものは私には作れない。

ひとりで缶チューハイを飲んだ。
寝付けなくて、何度も目を強く閉じた。自分の信じていたものが、崩れて行く音がした。

それは人知れず、私の夢が死んだ夜。
誰にも言わずに本気で追いかけ続けた夢を、終わらせた夜。

夢を折るのは、他人の言動なんかじゃない。
その夢の終わりを決めたのは、私の心だった。
他人から「無理だ」「違う」と言われても、しがみついていたのに。圧倒的な「才能」に、いまさら勝てないと思ってしまった。
あれほど「書きたい」と願ったのに。それをなくした私は、空っぽだった。何にでもなれる、とはもう思えなかった。もう何にもなれないと思った。


ただ目の前の仕事を、こなしていれば生きてはいける。最低限のお金をもらって、最低限の評価を受けて。そういう生き方だって悪くはない。

でも私は、夢を追いかけていた日々のつらさと同時に、楽しさを知っている。それがあるから耐えられる、という原動力がそこにあったことも。


諦めきれない夢を持っていたのも。
これだけは負けないというものを、信じていたのも。
それを結局手放したのも、絶対に私だけじゃない。

毎日ただ淡々と、目の前の仕事をこなしている…
そんなあなたの夢が死んだのはーー
いや、あなたがその手で夢を殺したのは、いつでしたか?

結局、死んだ夢を引きずったまま数年が経って。私は、自分が追いかけてきた夢のきらめきを、そして「これしかない」を見つける手助けがしたくて、人のキャリアを支えるための勉強をしている。

あの時の絶望が、私を新たな世界に進む勇気をくれたのかも知れないし。
後輩が「この原稿が書けたのは、ももかさんが見捨てないでくれたから」と言ってくれたそのひと言に、ちょっとだけ救われた気持ちになってしまったからかも知れない。

今はまだ、諦めた夢を抱え続けたままの人。
思う存分抱きしめていれば、もしかしたら夢は形を変えて、あなたを前に進めてくれるかも知れない。
……私は2年半くらい。あなたは5年かな、10年かな。

無理に踏み出さなくても、そのままでいい。
そのときは、きっと自然にやってくる。

綺麗ごとがきらわれる世の中だからこそ、
あえてそんな綺麗ごとを言葉にしたかった。
願わくば、殺したと思っていた夢が、あなたのなかで何らかの形で生き続けていますように。

……と、このnoteを書きながらも、
ほかの素晴らしい記事たちを見て自分の至らなさにあーーって唸っている。ぶっちゃけ、今もまだ引きずっている。
結局夢の先にたどり着くこともなく、特にすごい人にもなれなかった自分は、今も心のどこかで「なにかになれる」と思いたいのかも知れない。

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