ここから見える海はね。
以前、こんなことを書いたことがありましたが。
わたしが海へ行くのは、「ほんとうのわたし」を晒したり、「本音」を吐き出したりするためではないような気がして。
というのも、「ほんとうのわたし」なんて、うつろいやすくて、自分でも掴めやしないんだから、晒しようがない。「本音」だって、ことばにしないからこそ、本音なのかもしれない。「ほんとうのことは言っちゃだめなんだよ」って、子どもの頃からよく叱られていました。
海は、ほんとうに、どこまでもどこまでも広いから、「誰にも見つかりたくない」本音を吐き出していいようなところじゃないのかなぁ、なんてね。
あらためて。
ここから見える海はね。
底の見えない青がゆっくり揺れていて。
耳を尖らせないと、波音は聴こえない。
ときどき、潮の風がさーっと吹いて。海の向こうの気配を運んでくる。船を出そうとするけれど、砂が柔らかくて、すぐ足が埋もれる。休んでばかりで、ちっとも漕ぎ出せない。それでもいいんだ。何をするわけでも、何ができるわけでもなくたって、また行きたくなる。そんな場所。
海とおんなじくらい空も広い。
わたしの海に朝は来ない。朝の海にわたしが行かない。
だから、いつも、数えられないほど、めーいっぱい、星、星、星。その光ひとつひとつの強さが、色が、温度が、まっすぐに降ってくるような、そんな場所。
「名前がいらない」のは、「名乗らなくていい」のではなくて、「名前が無い」から。わたしの名前なんて、居場所にとっては大して重要ことではないのかもしれません。
だって、わたし、もう、ここにいる。海の向こうを想いながら、星を見上げるわたしが、ここに。