アメリカで夢を叶えた友人の話(2)

Nさんについて、日記代わりの手帳の記述と、二人が持っていた写真を頼りに前回の記事を書きましたが、記憶が曖昧で、当時の彼女が抱えていた悩みや葛藤についてはボンヤリとしか思い出せませんでした。もっと詳しい記録がないかと保存されていたメールを見返したところ、2007年にアメリカに渡って2011年に医療系大学に学士入学するまで、迷い、揺れ動き、挫折しそうになって思い直し、目標を定め直して大学生になった経緯が頻繁なメール交換の中で明らかになりました。大学生になった後も、1年目は担当教授の一人と摩擦を起こし、またまた挫折しそうになり、でも結局は現実的な解決策を取ったことで自信がつき、良い意味で居直ることができて、そこからは殆ど悩まなくなったようです。
2007年にニューヨークに来る前、Nさんは半年間の英語集中講座でスピーキングに自信をつけたようです。元々お喋りで(語学の習得には大切な条件!)発音もきれいだったので、インターナショナル・センターでもボランティアの先生や会員と流暢な英語で会話を楽しんでいました。いつ会っても明るい表情をしていました。韓国で数年間の看護師経験もあるから、すぐに看護師の職が見つかるだろうと軽く考えていたのかもしれません。
学生ビザを取るために在籍した語学学校には週2日通うのみ。インターナショナル・センターにはほぼ毎日顔を出し、当初は新しい街で新しい友達と遊びまわっていましたが、半年もすれば韓国で貯めたお金も減ってきます。そこでまずベビーシッターの仕事を見つけました。雇い主や子供との相性さえ良ければ、学生生活との両立がしやすい仕事です。ところが直前に雇い主が親戚に頼むことにしたからと断りを入れてきました。それでスーパーのレジ打ちの仕事に就き、週4日(うち日曜日は10時間労働)働いて糊口を凌ぎながら、外国人看護師の募集を待ちましたが1年経っても割り当て人数が増えず就職できません。いよいよ手持ち資金が尽きて、2008年8月からは週7日バイトするようになりました。
こんな生活をしていてはいつになったら目標が達成できるか分からない、とふさぎ込む日々が続いていた時、バイト先のマネージャーの奥さんから40代でお金持ち、アメリカ市民権を持つ韓国人男性との結婚を勧められました。「愛だの恋だの言っても、結婚して暫くすればそんなものは冷めるわよ。それより安定した生活とグリーンカードを手に入れれば、将来安泰よ。ともかく会ってみれば」と超現実的な助言を受け、反発を覚えながらも多少心が揺れたようです。私はこの奥さんの意見にある程度賛成です。私よりも若い友だちで、お見合い結婚をして仲睦まじく暮らしている夫婦が二組いる一方で、一応「恋愛」結婚したけれど夫婦仲が悪かったり、別れてしまった夫婦も複数組知っています。「ともかく、会うだけ会えばいいじゃない。もしかしたらとってもいい人かもしれないし」と言ったのですが、当時はまだ30歳手前の乙女。恋愛についての理想像もあり、結局は断ってしまいました。フルタイムのナース・プラクテイショナーとして充実した生活を送っている今のNさんの姿を見れば、結果的に彼女の選択は正しかったと言えるのでしょうが・・・。
それでも将来に対する不安はぬぐえず、10月頃から暫く教会に通っていました。Nさんは基本は無宗教だと思うのですが、教会というのは、悩める者がすがりたくなる場所ではあります。間口が広く、取り敢えずは誰でも受け入れてくれますから。私もロスとビクトリアで教会に通っていた時期があります。実家の宗教は神道で、夫の家は仏教。私自身は全くの無宗教なのですが、ロスでは友人に、ビクトリアでは家主さんに誘われて。手っ取り早く知り合いを作るには教会は格好の場所です。皆さん優しくて、迷える子羊を導こうという心にあふれていますから。もっとも、そこから信者になれるかどうかは別問題。Nさんも私も結局は教会から次第に足が遠のいてしまいました。
そんなこんなでまた1年。未だに看護師になれない。そして2009年7月。友人の車に同乗して高速道路を走っている時に追突事故に会い、半月板・靱帯損傷で膝の手術を受けました。それでもバイトは休めない。精神的・肉体的に疲労困憊し、11月のメールでは「アメリカは私には合わない。オーストラリアで成功している友人がいる。私もオーストラリアに行こうかと考えている」と書いてきました。「それもいいかも。でもそれより、カナダに来れば?一緒に勉強しようよ」などと能天気な返事をして親身に相談に乗ってあげなかったことが今でも悔やまれます。結局その年が暮れる頃にはやはりニューヨークで頑張ってみるというメールが来ました。
ところが2010年1月のメールでは「退屈している。膝の調子も悪い。もう嫌だ」とこぼし、それでもバイトと学校を辞めることもできず、ルームメートとのトラブルも続いて何回か引っ越しもして、かなり不安定な精神状態になっていました。その年2月に私がニューヨークに遊びに行った時はいつも通りNさんは食事や遊びに付き合ってくれましたが、楽しく話していたら突然泣き出すようなこともありました。
そして同年9月。追突事故の補償金を保険会社から貰えるかもしれない、そうしたらそのお金で大学に行くつもりだというメールを受け取りました。
相変わらずのバイト中心の生活ではあったけれど、大学入学という新しい目標ができたためにある程度は明るさを取り戻し、2011年初めには新しいアパートに引っ越し、大学の願書に添える志望動機のエッセイも書き、TOEFLも受けて着々と準備を進めました。結局、大学入学が認められるまでに保険金は貰えなかったけれど、実家のお母さんからの援助で晴れて9月から大学生になりました。それでメデタシメデタシ、とは行かないところが彼女らしいのですが・・・。(つづく)


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