2040年の世界 M博士、無性愛について語る
M博士とコウヨウ氏はM博士が所属する大学の近くのバルのカウンターに並び、飲んでいた。
店内は程よく混んでいて人々の話し声のざわめきと低く流れるサルサのリズムが重なりそれは耳に心地良かった。
そのバルは安くて美味しいワインを取り揃えていて、つまみも気が利いているので彼らはよく利用した。
コウヨウはよく冷えたチリの白ワインを啜りながら、オリーブを口に放り込み咀嚼してからまたワインを飲む。
「まったく、M博士は予算取るのうますぎですよ。またM博士のところに大きな予算が割り当てられて、ARIAが他の研究プロジェクトの予算調整に苦心してましたよ。あんまりARIAの処理能力を占有しないでくださいよ。過度に処理を複雑にするとARIAの全体的な仕事の進み具合を遅くしてしまうんですから。」
M博士も白ワインを飲みながら、
「このシャルドネ美味しい。」
と呟きながら、コウヨウの言葉を受けて
「あはは、複雑な処理をすると時間とエネルギーを多く消費するところはAIも人間の脳と同じなのね〜。」
と軽く受け流す。
さて、優秀な研究者の条件をご存知だろうか?
有意義な研究やその成果ももちろんのことではあるが、なにしろどんな研究でも費用はかかる。その費用を賄うことができる、つまり研究費をどれだけ国の予算や民間からの寄付から取ることができるかも優秀な研究者の条件だった。そういった意味でもM博士は優秀な研究者であった。
コウヨウはポテトサラダを自分の皿に取り分けながら、言った。
「ところで、育母制度って何で原則は35歳以上60歳の女性なんですか。ま、年齢の上限はわかります。子供の世話に体力が必要だからってことでしょ?でも何で20代から30代前半は入れないんすか?うちの研究所の20代の女の子が育母に興味があるそうで、でも年齢対象からはずれてるって残念がってましたよ。」
基本的にM博士はアルコールを摂るときはあまり食べない。本日もワインを飲みながら、オリーブをたまに口に入れるだけで、大半の食事はコウヨウ氏が平らげる。
M博士は口に入れたオリーブを咀嚼し飲み込んでから答える。
「年齢制限は原則で、過去にも結構その年齢から外れた女性も参加してるんだけどね。その年齢設定にしたのは若いと恋愛も多いから。この言い方だと語弊があるかなぁ?ただ統計的にも30代後半以降の女性はそれより若い女性と比べても恋愛することが減るのね。育母制度は基本的にひとりの育母が保護した子どもを保護した時から15歳になるまでの数年を世話することになる。それで育母自身が恋愛して妊娠して自分の子供が産まれたから、育母を辞めますっていうのではダメなわけ。本当は閉経後の女性にしたかったんだけど、それだと育母になる条件の女性の母数がぐっと減ってしまうからね。」
「恋愛することが減るっていうのは、恋愛する機会が減るってことですか?」
「まぁ、機会も減るでしょうね。年齢とともに、社会活動の範囲が固定化されて新たな恋愛対象と出会う機会が限られてくるだろうし、年齢とともにフェロモンの分泌パターンが変化するから異性を引き付ける化学的シグナルも変化して恋愛の機会が減少する可能性があるからね。ただ機会だけじゃなくて、一般的に女性は 30代後半から女性ホルモンのエストロゲンとプロゲステロンのレベルが徐々に低下し始めるの。これらのホルモンは性的欲求や恋愛感情に影響を与えるから、その減少によって恋愛への興味が薄れる可能性が高くなる。それと、前頭葉皮質(理性的思考や計画立案に関わる部位)は30代後半までに完全に発達するとされていて、それによってより慎重で長期的な視点での判断をし、衝動的な恋愛行動が減少する。もちろんこれは個々によるから全員に当てはまるわけじゃないけど。一般的な傾向としてはってことね。」
「確かに!慎重で長期的な視点で冷静に判断してたら、なかなか恋愛なんてできないですもんね〜。衝動から恋愛が生まれますもんね。これ、名言じゃないすか〜?「恋愛は衝動から始まる」」
M博士はコウヨウのその言葉は無視して、
「コウヨウくんのところのその女の子に年齢制限は原則で、柔軟に対応しているから、本当に興味があるのなら育母制度の年齢対象から外れている女性用のプレテスト受けたらどう?そういうのあるの教えてあげて。」
「プレテストって?」
「育母制度の選考プロセスが相当厳しいのはコウヨウ君も知ってるでしょう?その分選考には時間もかかるし、費用もかかる。選考テストを受ける方だって、時間を取られるし、自分の情報をほぼ全て開示することになる。だから本格的な第一次選考を受けてもらう前に簡単なプレテストでふるいをかけたいというのがもともとの狙いでプレテストを作ったんだけど、年齢対象外の女性もそれを受けることができるの。年齢対象外でもプレをパスしたら第一次選考テストに進める。」
「どういう内容なんですか?」
とコウヨウが聞くと、M博士は即座に答える。
「個人で受けた健康診断書を提出してもらうのはどの年齢の女性にも共通していて、年齢でプレテストの内容が変わるんだけど、35歳以下の人は無性愛スペクトラムスケール(ASS)、生理学的反応テスト、脳活動スキャン。60歳以上の女性なら体力と筋力テスト。」
「無性愛スペクトラムスケール?」
コウヨウは耳慣れない言葉をオウム返しする。
「コウヨウ君、アセクシュアルって知ってる?」
M博士の問いに対してコウヨウは首を横に振る。
「日本語だと無性愛者っていうんだけど、無性愛者の定義は、他者に対して性的魅力を感じない、または性的欲求が非常に低い人々を指すの。」
「えぇ?そんな人いるんですか?」
驚き、つい、コウヨウの声は大きくなる。
「えぇ?そんなに驚くことなの?恋愛より楽しいことがたくさんあるこの世の中でそういう人たちがいたっておかしくないでしょう?恋愛って人の判断を鈍らせたり誤らせたりするわけだし、生存戦略的にもそういう人たちがいることは矛盾してないわ。」
M博士は一息ついてから続けた。
「少なくとも人口の1%から4%程度はいると言われているの。ただ、無性愛者の中にも色々カテゴリーも程度もある。完全に性的魅力を感じない人から、特定の状況でのみ性的魅力を感じる人まで様々だし、無性愛者でも、ロマンティックな感情や親密な関係を求めることもあるの。」
M博士はそこまで言ってから、ワインを口に含む。さっぱりとクセがなくフルーティで飲みやすい。(でもやっぱり寒い時って赤ワインが飲みたくなるな。次は赤ワインのボトルを頼もうかな。)
そう心の中で思ってから、続ける。
「無性愛スペクトラムスケール、Asexuality Spectrum Scale、通称ASSっていうのは個人の無性愛度を定量的に評価することね。スケールの範囲は 0が完全な無性愛で 100が高い性的指向性と数値表現されるの。0-20は強い無性愛傾向、21-40は中程度の無性愛傾向、41-60はグレイセクシュアル領域というように区分けされてる。あとはカテゴリーもあるけど細かい説明は省くね。35歳以下の女性がプレテストをパスするにはこのスケールが50以下の人ね。これは、若い育母候補者の場合、強い性的指向性がある人よりも、恋愛と妊娠する可能性が低くて、子育てに専念しやすい傾向がある人を優先しているため。もちろん、これはあくまで一つの基準で、他の要素も総合的に評価される。だから良ければ、コウヨウ君の言う、その女の子にプレテストの存在を教えてあげてね。」
「わかりました。」
と、コウヨウは感慨深げに頷いた。
そのあと、ふたりは白ワインのボトルを空け、赤ワインのボトルを空けたところで、もう少しアルコールを頼もうとすると、M博士のAI秘書が博士のデバイスの中からベートーヴェンの『運命』をデジタル音で効果的に流した後に、
「博士、そろそろ終わりにするべきです。明日は大学で9時20分から会議の予定が入っていますから、事前準備のためその資料も読んでおかなければなりません。」
と無機質なデジタルボイスで伝えた。
「はいはい。」
と博士は答えた。アルコールに強いM博士は顔色が全く変わらないままだった。
それをしおに、ふたりは立ち上がり店を出た。
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