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2040年の世界 ネストハーモニー

サクラは300時間のVRトレーニングを終え、国が管理する育母とその子供が生活する施設ネストハーモニーで実地訓練に入るところだった。実際に育母とその子供と一緒に3ヶ月間暮らすことになっている。

街の郊外にある丘の緩やかな坂道を上がって行くと丘の上には5階建ての建物が3棟並んでいた。そしてその3棟の建物から少し離れたところに教育施設や共用施設とみられる建物もあった。
建物の屋根には太陽光パネルが配置され、木材と自然石でできた外壁とアーチ型の窓と扉の建物は温かみとどこか懐かしい感じがした。

サクラが3棟のうちの1棟、かのん館と名付けられている建物の玄関に足を踏み入れると、床と天井に使われた無垢材の木の香りがした。広々としたエントランスホールには、大きなアーチ型の窓から自然光が降り注ぎ、空間全体を明るく温かな雰囲気で満たしていた。

直線を極力避けた曲線で構成された家具は不思議と心を落ち着かせる効果があった。

エントランスホールの奥の大きな窓の外には、色とりどりの花々や手入れの行き届いた低木が広がるイングリッシュガーデンが見える。その向こうには、小さな農場と牧場があり、季節の移ろいを感じられる自然との触れ合いが、ここでの生活の中心にあることが伝わってきた。

案内AIロボットにかのん館の寮母室に案内された。
60代くらいのグレイヘアの眼鏡をかけた小柄で華奢な女性が笑顔でサクラを迎えた。
椅子をすすめてくれ、サクラが座ると寮母は
「VRトレーニングお疲れ様でした。あなたはとてもよく頑張ったと聞いています。ようこそネストハーモニーかのん館へ。」
と言った。
「これからお世話になります。どうぞ宜しくお願いします。」
とサクラは頭を下げた。
「後で案内AIロボットに施設の敷地内全て案内してもらってください。」
「はい」
とサクラは小さな声で答える。
「早速ですがあなたが実施訓練で入る育母とその子どもについて説明しますね。」
と寮母は言ってから、間を少しあけて話し始めた。
「育母Kは今回で保護した子どもの世話は3人目となるベテランの女性です。世話をしている子どもはエミリという8歳の女の子です。そこまではあなたも聞いていますね?」
「はい」
とサクラは答えた。
寮母は続けた。
「エミリは1年前にここに来ました。母親は日本人で中度の薬物依存症者、父親はイギリス人で依存症ではないけれど、薬を常用していて、性的逸脱行動がありました。エミリは実父から性的虐待を受けていました。イギリスでの出産だったので肩にチップは埋められておらず、7歳までその虐待は気づかれませんでした。」
そう言いながら、寮母はわずかに眉間に皺を寄せる。
「そして日常的に頭を叩かれていたため、前頭葉皮質に中度の損傷が見られました。ここに来た時のエミリはとても酷い状態でした。」
寮母はその時のことを思い出したのか怒りと悲しみが入り混ざったような表情をした。

サクラはそれを聞き、性的虐待を受けた子どもや虐待で前頭葉皮質を損傷した子どもの一般的な反応と特徴とその問題行動をいくつか頭に思い浮かべる。

「彼女が受けた虐待の内容や、脳の損傷箇所、そのための彼女の障害その他彼女に関することをまとめた資料はあなたの端末に送りますから、必ず彼女に会う前に読んでおいてください。」
とサクラを真っ直ぐ見ながら寮母は言った。
サクラは頷く。

「今はその頃よりは幾分か落ち着いていますが、今でも治療は続いています。治療は主にVR(仮想現実)を用いた認知機能リハビリテーションと、薬物療法を組み合わせています。」

寮母は慎重に言葉を選びながら説明を続けた。サクラは真剣な表情で聞き入り、時折うなずいた。

「それと同時に心理療法と行動療法も並行して行われていて、日常のルーティンに組み込まれています。まだまだ通常の8歳の発達には達していませんし、同年代の子どもの中に入っていくにはまだ早いという医療スタッフの判断で、学校には行かせないで彼女のペースに合わせた家庭学習を行っています。ですから、昼間は学校に行く子どもたちと違い、エミリは1日中育母Kと一緒に過ごしています。」

寮母は一旦言葉を切り、サクラの表情を確認するかのようにサクラの顔を覗き込んだ。サクラは落ち着いて、寮母の次の言葉を静かに待った。

「エミリのような状況の子どもと育母候補生が短期間一緒に暮らすことについては、私たちは専門家も交えて慎重に議論してきました。あなたの選考プロセス、VRトレーニングの総合評価、そしてあなたが作成したレポート内容全てに目を通し、あなたなら大丈夫だろうという結論に私たちは達しました。そこで、あなたの実施訓練をこういった子どもの世話の補助につけることにしたのです。」
寮母は続けた。

「本来は育母候補生は訓練のその日から育母とその子どもと一緒に生活し始めますが、エミリの例は特殊です。ですから1週間はエミリの治療の横でそれを見ている、ランチを一緒にする、おやつを一緒に食べるなど短時間の接触にとどめ、2週間目から徐々に接触時間を増やし、1ヶ月後から一緒に暮らすことにします。その間はあなたは施設のスタッフ用の部屋に寝泊まりして、エミリの世話の補助以外の空き時間はここのケアスタッフの仕事を手伝います。いいですね。」

寮母は最後の言葉を、質問というよりも確認のような口調で言った。サクラは真剣な表情で頷いた。

その後サクラは案内AIロボットに施設の敷地内を案内してもらった。どこも簡素で素朴な造りでそれでいて注意深く全てが丁寧に手入れされていることは傍目にもよくわかった。静かで秩序があり、温かな家庭的な雰囲気に満ちていた。施設内は一貫してひとつの雰囲気を作り出しているようにサクラは感じた。

寮母からエミリの説明を受けた翌日、早速サクラはエミリの日々のルーティンに組み込まれている作業療法に立ち合った。手先の器用さを向上させる細かい作業の練習でエミリは椅子に座り、机の上でビーズ通しをしていた。作業療法士は同席し、Kはエミリの横に座り編み物をしていた。

育母Kは60歳の女性で、色が抜けるように白いもち肌だがよく見るとその化粧っ気のない顔にはちりめん皺が広がっている。
ふっくらした体型でいつも優しい表情をした人だ。言葉少なで笑う時はまるで少女がはにかむように笑った。

サクラは、エミリがビーズ通しをする様子を静かに観察した。

エミリは猫背気味に椅子に座り、机の上のビーズに向かっていた。薄茶色の髪の間からところどころ脱毛のため頭皮が透けて見える。細い指でビーズを拾おうとするが、度々取り落としてしまう。それでも黙々と作業を続け、糸にビーズを通そうと努力している。その動作はぎこちなく、時折手が止まることもある。

焦点の定まらない薄い茶色の瞳は、主にビーズと自分の手の間を行き来しているが、時々虚空を見つめるように宙を見ることもある。表情は乏しいものの、ビーズを糸に通すのに苦心している時は、かすかに眉間にしわを寄せる様子が見られた。

15分ほど経過すると、エミリの姿勢はさらに崩れ始め、肩が少し丸くなっていく。時折、小さなため息をつくこともあった。

作業療法士は静かにエミリの様子を観察しながら、時折メモを取っていた。エミリが特に困難そうな様子を見せた時には、優しく声をかけ、励ましの言葉を掛けている。

育母のKは、エミリの横で編み物をしながら、さりげなくエミリの様子を見守っていた。エミリが作業に行き詰まった様子を見せると、Kは編み物の手を止め、エミリの方に体を向ける。しかし、すぐには介入せず、エミリが自力で課題に取り組む機会を与えていた。

エミリが完成させたビーズの並びは不規則で、色や大きさにばらつきがあったが、作業療法士とKは温かい笑顔で彼女の努力を認め、励ましの言葉をかけていた。

サクラはこの静かな空間で、エミリが、周りの大人たちによって大切に見守られている様子を目の当たりにした。​​​​​​​​​​​​​​​​

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